黒鐡…76
ハッキリとは判断し難いけれど、目にした天井は御島が入院していた病院の天井に、良く似ている気がする。
「思い通りにならないのが可愛くて堪らないなんて、どうかしてるよ。……一つ訊いていいか?どうしてあの女性に、素直に刺されたんだ。お前なら直ぐに腕を捕まえて、一本や二本簡単に折ったりするだろう。相馬君を惚れさせる為か?」
「あいつは随分前から俺に惚れていたんだぜ。本人は無自覚だったが…」
「なら…気付かせる為か、」
「いや、違う。惚れた相手が刺されたんだ。此れで心置きなく、母親から離れられるだろう。あいつはあの女のことが、ずっと心に引っ掛かっていたみたいだからな」
「お前…そんな事をして、相馬君の心が壊れるとは思わなかったのか?」
「馬鹿云ってんなよ。あいつは身体は弱いが、中身はそこまで脆く無い。中身まで脆かったら、俺が惚れる訳ねぇだろう。第一、それぐらいで心が壊れるような弱い奴なんざ、いらねぇよ」
「お前がそれ程強く誰かに惚れるなんて、まだ信じられないよ。顔は美人だし、可愛い所も有るって事は分かったが……何処がいいんだ、」
「本当は淋しくて堪らない癖に強がっている所が、可愛くて堪らねぇ。傷付いている癖に、それを認めようとしないしな。
鈍い所も甘え下手な所も、素直になれねぇ所も何もかもが良いんだよ。……逸深、あいつの事をぐだぐだ言うんなら、容赦しねぇぞ」
意識がひどくぼんやりとしていて、遠くの方で聞こえる声が上手く聞き取れない。
熱が有るのか、身体はやけに怠くて、寝返りすら打つのが億劫だった。
思考も上手く働かない上、遠くで聞こえる声があまりにもハッキリしないから、現実なのか夢なのかすら分からない。
「悪かったよ、もう言わない。…当主様、かなり意気消沈していたぞ」
「知るかよ。あの馬鹿当主、勝手しやがって。鈴を連れ去った上、手まで上げやがった。鈴の顔を見た時、その場に居た奴ら全員……本気で殺してやろうかと思ったぜ」
低く冷ややかな、鋭利な声が響いて、一瞬、恐怖で背筋に寒気が走る。
だけど、この声は御島の声だと、ぼんやりとした頭でそれだけは理解出来て、直ぐに恐れは消えた。
声が聞こえるぐらい近くに居てくれてる事実に、強い安堵感が湧いて、僕は瞼をゆっくりと閉じる。
「殺しに、私情は入れない筈だろう。六堂嶋黒鐡の名が泣くぞ」
「名前なんざ、どうでも良い。俺はただ、鈴を甘やかしまくって可愛がって、何よりも幸せにしてやりてぇんだよ」
「変わったな、黒鐡。丸くなったと云うか…優しくなったな、」
「笑える話だが、あいつを前にすると自然とそうなる。自分でも、不思議で仕方ねぇよ」
「いいな黒鐡、人間っぽくて、いい。以前のお前は本当に名前通りだったけど…今は、すごく人間っぽいな。俺にも相馬君のような恋人が居たら、良い風に変われたかもな」
「サドで歪んでるお前に、鈴が惚れる訳ねぇだろ」
御島と誰かの抑え目な笑い声が響いて、御島の事を想うと温かい気持ちになって
僕はあまりの心地好さに、誘われるように眠りに就いた。
どうやら雨に打たれた所為で熱を出してしまったらしく、僕は三日も意識を取り戻さなかったらしい。
目を覚ますと僕は御島の家のベッドで寝ていて、その事を御島から聞かされて、また迷惑を掛けてしまったのかと反省した。
何か心地の好い夢を見ていた気がすると考えながら上体を起こすと、御島は近くの椅子から立ち上がって、ベッドの上へとあがって来た。
「おまえが熱で意識を失っている間に、殴られた所は少し腫れたんだが……まだ痛むか、」
御島の指が頬に触れたけれど、もう痛みなんて全く感じない。
痛く有りませんと答えると御島は眉を顰めて、何処と無く怒っているような、やけに真面目な表情を浮かべて僕を見据えた。
「鈴、六堂嶋の人間に他には何もされてねぇか、」
「…醜くて見れない顔にしてやったら、とは言われましたけど……僕の顔、変になってませんよね?」
首を少し傾げて訊き返すと、御島は安堵したように微笑してから
僕の頬へ手を当てがい、目元をゆっくりと指でなぞった。
「なってねぇよ。腫れももう引いているが…襲いたくなるような面は、してるぜ」
臆面無く掛けられたその言葉に熱が急上昇して、僕は恥ずかしさで視線を逸らした。
すると御島は可笑しそうに笑い声を立てたものだから、からかわれたのだと察し、直ぐに視線を戻す。
「鈴…、俺の事を好きだと云ったな」
唐突に肩を押されて、呆気なくシーツの上へと沈んだ僕に向けて、彼は目を細めながら尋ねて来た。
うっすらと口元に微笑を浮かべているその表情が、ひどく格好いい。
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