黒鐡......02



 顔は見たことが無いけれど、きっと不機嫌そうな顔をしているんだろう。
 ゆっくりとかぶりを振って、全然大丈夫ですと返しながら、僕は視線をそろそろと上げた。
 父は正面の上座で胡坐を掻いて座り、その斜め右後ろ辺りの丁度障子の近くに、品の良いスーツを着た人が座っている。
 二人の顔も見ないまま、直ぐに視線を落として意味も無く畳を眺めた。
 そう云えば、あの男を最初に見た時は、躊躇いもせずに自然と目が上がっていったっけ。
 執拗に感じた男の視線が、気になったからなのか定かでは無いけれど、母以外の人の顔をあんなにも長く見たのは初めてだった。
 あの男が相手なら、眼を見ながら言葉を交わす事も、出来るだろうか。
 そんな考えが一瞬だけ頭の中をよぎった瞬間、父の声が耳に響く。

「今日が誕生日だったな。何か欲しい物は有るか?」
「いえ、特には…」
 短く答えると少し沈黙が流れて、父は軽い咳払いをした。
「…あぁ、…お前は十七になったのか、」
 僕を呼ぶ際に少し口篭った父の声を耳にして、思わず嘲笑が浮かびそうになった。
 父は、僕の名前など覚えては居なかったのだ。
 その上、僕の歳もちゃんと覚えては居ない。

 ――――これが、僕の父だ。
 一瞬で何もかもが、どうでも良くなった。
 訂正する気も失せた僕は、何も云わずに頷いて見せる。
 本当の歳を告げても、この人は直ぐに忘れるだろう。
 愛して居ないと云う事は、どうでも良い存在だと云う事だ。
 父が僕をどうでも良いと感じているように、僕もこの人をどうでも良いと感じている。
 こんなのは、親子なんて云えるのだろうか……。
 そう考えると何だか胃がせり上がって来るようで、少しだけ眉が寄る。
 元から体調が悪い上、来る途中の混雑した車内で人に酔ってしまったのも有って、吐き気は余計に強まった。
 きっと顔色はかなり悪いだろうと考えるが、父は全く気にした素振りも無く、自分の会社の自慢ばかり話している。
 軽く俯いて畳を眺めながら、早く家に帰りたいと、僕はただ切に願った。








 父は自分の話を三十分程続けて話すと満足したのか、もう僕に用は無いと云った様子で解放してくれた。
 ふらつく足取りで母の待つ部屋へと向かうと、母は僕の顔を見るなり不機嫌そうに眉を顰め、濃藍色の座布団の上から立ち上がった。
「全く、午後から兼原(かねはら)に会うと云うのに…遅れたらどうしてくれるのよ。…あの人も、もう少し考えて欲しいわね」
 ぶつぶつと呟きながら彼女は、僕のコートを押し付けるように手渡してから、横を足早に通り過ぎて廊下を進んでゆく。
 あの人は気紛れだと認めたのは、母さんじゃないか…と頭では考えていても、決して口にはしない。
 母の機嫌を損ねて、こんな所に置いてけぼりにされるのは、まっぴら御免だからだ。

 母が会うと告げた兼原と云う男は、母の一番弟子であると同時に、恋人でも有る。
 温厚そうな男の雰囲気と声を思い出して、母がもし遅れたとしても、怒る事は無いだろうと考えた。
 顔は…全く見なかったから、兼原がどんな顔をしているのか知らない。
 でも多分、顔立ちは良い方だと思う。でなければこの母が、恋人にする筈が無い。

 玄関から庭に出て、やっと帰れるのだとホッとしていたのも束の間で、母は先程の部屋に携帯を忘れて来たと告げて
 いそいそと僕から離れて家の中へ戻って行ってしまった。
 どうすれば携帯なんか忘れるんだろうと呆れながらも、僕は母の背を見送る。
 具合が悪い為に、母の後を追いかける気には、どうしてもなれなかった。
 折角履いた靴をまた脱ぐのすら、億劫で仕方ない。
 一人残された僕は、陽の当たらない所を探して庭の隅に向かい、まだ帰れそうに無いのかと考えて、軽い溜め息を吐く。
 秋だと云うのに外はやけに寒く、僕が吐いた息は白く見えた。
 陽が当たらない場所に居るから余計に寒くて、コートを羽織っているだけでは物足りない気がする。
 手袋かマフラーでもしてくれば良かったと考えながら、冷えた手を擦り合わせて壁に凭れ掛かった。
 熱が上がり始めたのが分かったから、夜半には高熱で意識が途切れるかも知れない。
 今までの経験上、その予想は確定に近かった。
 数日間はまた寝込むかも知れないと考えながら、再度白い溜め息を漏らす。
 僕が高熱を出そうと出すまいと、母が僕の傍に居る事は無い。
 あの離れで一人、熱にうなされ続けるのが、昔っから当たり前の事だった。

 軽く咳込み、熱でぼんやりとする頭に少し苛立ちながら少し向こうの、日の当たっている地面を眺めた。
 来る時は曇っていたのに、もう日が出ている。
 日差しにめっぽう弱い僕にして見れば、温かそうな日差しは僕を苛立たせるだけだ。
 此処まで日差しが届く訳が無いけれど、僕はまるで逃げるように、壁へ背を押し付けて俯いた。
 気持ちの悪さは最早ピークに達していて、咳が更に酷くなり始める。
 口元を両手で押さえて咳込みながら、立っているのも辛くなって、その場にしゃがみ込んでしまう。
 どうやら僕の居る場所は死角になっているみたいで、家の中に居た人達からは気付かれる様子も無い。
 どれだけ苦しくても、他人に助けを求めようとはしない自分の頑固さに、少し呆れた。
 けれど、それで良いのだ。
 人に助けを求めたりなんかしたら、脆弱な僕を見て、母が恥を掻くだろうから。

「おい…大丈夫か、」
 止まらない咳の所為で呼吸が上手く出来ずに苦しんでいると、少し遠くの方から低い声が聞こえた。
 それから、荒々し気に近付いて来る足音が、耳に入る。
 地面しか見ていない僕の目の前まで、黒く高そうな革靴は近付き、そしてピタリと止まった。
 けれど僕は顔を上げられず、身体に言いようの無い緊張が走るのを感じていた。
 これは……この雰囲気は間違い無く、あの男のものだ。
 今にも食い千切られそうな程に獰猛な、黒々しく威圧的な雰囲気。
 今日は父の傍に居なかったから、てっきりもう居ないとばかり思っていたのに。

「お、構い…な、く」
 咳の所為で苦労しつつも、少し震えた声でそれだけを云うけれど目の前の靴は動こうとしないから、聞こえなかったのかも知れない。
 咳は次第に少しずつ治まり、その事に安堵しながら僕は直ぐに立ち上がった。
 その瞬間、強い立ち眩みでグラリと視界が揺れる。

 拙い、と思った。
 こんな所で、倒れる訳には行かないのだ。
 地面に倒れたりなんかしたら制服が汚れて、母に叱られてしまう。
 一瞬そう考えるけれど、僕は次の瞬間、伸びて来た腕にしっかりと身体を支えられていた。
 その行動が助ける、と云うのかは分からないけれど、僕は誰かに、こんな風に助けられた事は無い。
 驚きで暫くの間何も考えられずに居ると、頭上で男は低い笑い声を立てた。

「…細い身体だな、」
 まるで小馬鹿にするような呟きに、感情が冷えるように頭の中が冷静になってゆく。
 さっきは驚きがあまりにも強かった所為で、何とも思わなかったけれど……僕は他人に、抱き支えられているのだ。
 人がこんなにも近くに、しかも身体に触れられているんだと考えると、途端に嫌悪感が込み上げて来て―――
 僕は軽い恐慌状態に陥り、礼を云う事すら忘れて、男の腕の中でもがくように身体を動かした。
「い、嫌だ…離せ…っ」
 搾り出すように言葉を掛けると、男は可笑しそうに低い笑い声を立てた。
 何が可笑しいのか疑問に思ったが、問い掛ける気にはならない。
「…先に云う言葉は普通、礼の言葉だろう?」
 叱ったり不機嫌になる、と云った様子は無く、男はただ可笑しそうにそう云って来た。
 その言葉に少し冷静さを取り戻し掛けたけれど、男の次の行動に、頭の中は一気に真っ白になる。
 相手は更に強く、僕を抱き締めて来たのだ。
 それは本当に、抱き締めるとしか云い様の無い行動で、僕は小さな悲鳴を漏らす。
 男の胸元に顔を押し付けさせられて息が詰まり、身体が一瞬強張って徐々に震え始めた。

「どうした…、」
 震えている僕に気付いたのか、男はようやく身体を離してくれた。
 逃げるように、少しよろけながら後退りして、僕は壁に背を付けて凭れ掛かる。
 俯いて呼吸を整え、思い出したように軽く頭を下げた。
「あ、有り難うございました。本当に、すみません。もう、大丈夫です」
「無理はするな、…顔色も悪い」
「いいえ…もう本当に、大丈夫ですから。すみま、せ…、」
 最後までちゃんと言いたかったのに、僕は咄嗟に口を抑えて咳込んでしまう。
 しまった、と遅れて考えたけれど、相手は「ほら見ろ」と、意外な言葉を発した。
 そんな言葉を、目の前で聞いた事は無い。
 何だか呆れたような口調だったけれど、何処と無く優しい感じに思えたのは、僕の気の所為だろうか。
 常に感じるあの黒々しい雰囲気ですら、今は薄れているように思える。
 何時もは身体が震えるぐらいに恐ろしくて、息が詰まって、呼吸すら上手く出来ないほど張り詰めた雰囲気なのに。
 あの責めるような双眸は、今はどうなっているのか何故か無性に気になって、僕は顔を上げようとした。
 その瞬間冷たい感触が額に触れ、咄嗟に首を竦めると、男は愉しそうに笑い声を立てた。
 自分の額に触れている冷たいものが男の手だと云う事に気付いて、身体は一瞬だけ強張った。
 でも、何故かさっきのような嫌悪感が湧かない。

 ………気持ちがいいのだ。
 男の手があまりにも冷たすぎて、気持ちがいい。

「熱が高いな…少し休んだ方が良い」
 笑っていたのとは打って変わって、男の口調はとても真面目なものだった。
 けれど僕は掛けられた言葉が上手く呑み込めず、ただぼんやりと相手を見上げる事しか出来無い。
 余計な事など何一つ考えず、この冷たい感触に浸っていたいとすら思った。
 けれどその手は、あっさりと離れてゆく。
 離れてゆく手をまるで惜しむように眼で追って、直ぐに僕ははっとした。
 相手の手を眼で追ってしまった事が、無性に浅ましい事のように思えた。

「…す、すみません、休まなくても大丈夫です。それに、もう帰りますから…気に掛けて下さって、有り難うございます」
 慌てたように頭を下げて礼を口にするけれど、自分の行動を恥じて頭を上げられない。
 相手が去るまで、頭を下げたままで居たいとすら思ったのに、急に伸びて来た手に顎を掴まれ、顔を無理矢理上げさせられた。
「真っ青な顔して云う科白じゃねぇな、」
 男の強引さに驚く僕には構わず、相手は苛付いたように小さく舌打ちを零した。
 そして本当に唐突に、僕の身体に手を回して軽々と抱き上げ、肩に担いだのだ。
 息が止まる程驚いたけれど、男は僕を担いだまま飛び石を伝って庭を進み出した。

「は、離して…下ろしてくださいっ、」
 一体この男は何を考えているんだと、不可解な行動に頭を抱えたくなる。
 両足を暴れさせて何とか下ろして貰おうと試みた途端、さっきまで薄れていた、息も詰まる程の黒々しい雰囲気が強まった。
「部屋に着いたら下ろしてやる。…あんまり暴れると、庭池に放り込むぞ」
 刺すような鋭い声と男の雰囲気が恐ろしくて、息が詰まる。
 他人に触られている事に対しての嫌悪感はどうしてかあまり湧かなかったけれど……見っとも無い程、身体は震えていた。
 そんな僕を気にした様子も無く、男は縁側の硝子戸を開けて家の中に入り、更に進んで廊下を通ってゆく。




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