黒鐡......03
けれど急に男の足が止まって、此処で下ろしてくれるのかと考えた矢先、女性の声が耳に入った。
「御島さん、どうなさったんですか、」
「…美咲さんのお子さんが、少々ご気分を悪くされたようでしてね。」
御島とはこの男の事だろうかと訝る僕の耳に、信じられない程、慇懃な返答が聞こえた。
さっきの鋭い声なんて無かったかのように、それはとても穏やで、優しそうなものだ。
今のは本当にこの男が出した声なのか驚いているのは、僕だけのようだった。
肩に担がれている所為で顔も見えない女性は、医者を呼ぶべきか御島に問い掛けた。
そこまで大事にされたくは無いと焦ったけれど、御島はやんわりと断ってくれた。
「少し休めば大丈夫だと本人も云っていますから…奥の座敷を少しの間使わせて頂きます。
それと、美咲さんにこの事をお伝え頂けますか、」
母の名前を知っていると云う事は、母とこの男は知り合いなのだろうか。
ただ驚く事しか出来ずに居る僕を置いて、二人は直ぐに会話を終えてしまった。
女性は横を通って、足早に廊下を進んでゆく。
見る気は無かったのに、通り過ぎる際に少し見えた女性の頬が、少し赤らんでいたのは気の所為だろうか。
御島は、どんな表情をしてあの女性と話していたんだろう。
御島について気にし始めていたけれど、彼は女性の方を振り返る様子も無く、再び足を進め出した。
やがて誰も居ない座敷へ辿り着いて、そこでようやく僕を下ろしてくれた。
まだ身体は少し震えていて、御島の顔が見れずに俯いてしまう。
「…少し脅かしただけだろう。そんなに怯えるな、」
溜め息混じりに呆れたような声が聴こえて、恐る恐る顔を上げようとすると、急にコートの釦に手を掛けられた。
驚く僕なんてお構い無しに、御島は釦を外してゆく。
コートを脱がされると云う事は、ゆっくり休ませる気なのだろうと判断するけれど、母が待っていると考えると、そんな事が出来る筈も無い。
「兎に角、寝ていろ。気分はどうだ、吐きそうか?」
畳の上に僕のコートを置くと、男はゆっくりと僕の身体を横たわらせて、あの大きな手でまた額に触れて来たものだから一瞬だけドキリとする。
僕はこんな風に頭を触って貰った事は無いし、こうやって誰かに傍に居て貰って、身体を気遣われた事も無い。
慣れない事をされて少し緊張したけれど、あの冷たい手の感触はとても気持ちが好かった。
けれど今度は、その感触にゆっくりと浸っている事は出来ない。
「だ、大丈夫です。あの、母が待っていると思うので…」
「ああ、あの女だったら男と電話中だ。部屋の外まで聞こえるぐらいの声で喋りやがって…
淑(やかじゃねぇな」
自分の母を馬鹿にしたように云われて気を悪くし、咄嗟に御島を睨むと、相手は目を細く眇めて口角を上げるだけの冷たい笑みを浮かべた。
それは本当に、冷たいとしか云いようの無いもので………
途端に寒気が全身を走って、鋭く射抜くような双眸から目が離せなくなる。
身体が震えて、恐いから眼を逸らしたいと思うのに、逸らせない。
言葉を交わす時は母の眼すら見れない僕が、どうしてこんな、あまり良く知らない男の眼をずっと見ていられるのだろう。
「……ネクタイは、しない方が良いな」
「はっ?」
硬直したまま動けないで居ると、唐突に良く分からない発言をされて、間の抜けた声が零れる。
すると相手はゆっくりと身体を動かして、僕の上に覆い被さるような体勢になって来た。
鋭い眼差しも冷笑も相変わらずで、けれど雰囲気は少し柔らかなものになっている。
もしあの黒々しい雰囲気のまま、こんな風に覆い被されたら……きっと、殺されると勘違いしていたかも知れない。
「…こう云うのは、おまえには似合わない。」
伸ばされた御島の手が僕のタイを手にして、慣れたようにそれを緩め、あっさりと解いてしまう。
それを見て不快に思う訳でも無く、折角上手く結べたのに…と、僕はそんな事をぼんやりと考えていた。
「あ、の…幾分楽になりました、有り難うございます。母もそろそろ電話を終えたと思うので…」
似合わない、と告げてから御島はそれっきり何も云わず、
じっと此方を見下ろしているので何だか場の沈黙に耐え切れず、僕はそう切り出した。
実際、身体は怠いし重いしで、とても一人で歩けるような状態じゃなかったけれど…
病弱だからと言う理由で、他人に甘えたくなんか無かった。
「まあ待て。じっとしていろ…」
上体を起こし掛けると、御島は僕の肩を抑え付けて、それを制止した。
大して力を込めていないようだったが、抑え付けられている僕としては、肩が痛いぐらいだった。
思わず痛みと少しの嫌悪感で眉を顰めると、その手は直ぐに離れてくれた。
「これぐらいで痛いのか?柔だな、」
小馬鹿にしたように鼻で笑われたけれど、怒りは湧いて来なかった。
全く持って、その通りだからだ。
だから僕はすみませんと一言だけ謝り、だが御島は気を悪くしたように眉を顰めた。
「……言い返さないのか。つまらねぇな」
苛付いたように云われて、でも僕は傷付く事なんて無い。
つまらない人間だとか、そんな言葉は云われ慣れているし、何より自分でもそう思うのだ。
だから僕はもう一度、すみませんと謝るだけだ。
謝ると、御島は暫くの間眼を細めて僕を見ていて、やがてゆっくりとその口元が動いた。
「まあ良い。で、おまえ…名前は?」
喋るのが好きなのか分からないけれど、御島はさっきから僕に話し掛けてばかりだ。
自分の事を一方的に話されるのも苦痛だが、かと云って、質問されるのも好きじゃない。
御島の双眸が鋭く冷たいし、その身に纏っている雰囲気も何だか威圧感があるから……………まるで、尋問されているみたいだ。
それに、どうして父の傍に居た男が、僕の名を知らないのか……
そこまで考えて、僕の名を覚えていなかった父の事を思い出し、一人で納得した。
父の傍に居たとしても、肝心の父が僕の名を覚えていないのだ。
御島が、僕の名前を知っている筈が無い。
此処で名を教えて、それでこの男は覚えていてくれるのだろうかと、
僕にしては珍しく、期待とも呼べる感情を胸に抱いた。
「鈴(、相馬…鈴です」
気付けば、殆ど無意識に自分の名を呟いてしまい、自分の発言に驚く。
慌てたように口元を抑えた僕に向けて、御島はあの冷たい笑みを、うっすらと穏やかなものに変えた。
「すず…鈴か。…いいな、似合っている」
名前が似合っているだなんて云われた事の無い僕は、驚くと同時に拍子抜けしてしまった。
驚きで少し瞠目しながら相手を見上げると、御島は愉しそうにその口元を更に緩ませた。
「どうした、そんなガキっぽい表情しやがって…堪らなくなるだろう、」
喉の奥で笑いながら機嫌良さそうに云う御島の、その言葉の意味が理解出来ない。
堪らない、とは何だろう。
子供みたいな表情をすると、どうして堪らなくなるんだろう。
不思議に思いながら、まじまじと相手を見上げて、だけど直ぐにハッとして視線を逸らした。
いつもあまり表情を変える事が無いのに、一体僕はどうしたのだろうか。
慣れない事をされて、気が動転しているのだろうか……それとも、熱の所為だろうか。
自分の事が理解出来ないなんて、そんな事が初めての僕は、戸惑うばかりだ。
その上、深く考えようにも熱の所為で思考が鈍っていて、上手く頭が働かない。
戸惑う僕に更に御島は顔を近付けて来て、一瞬息が止まるかと思いきや御島は何かに反応したように、直ぐに顔を離した。
離れると緊張感は自然と薄れ、安堵した僕は、襖の方に視線だけを向けている男を見つめた。
雰囲気がさっきよりずっと黒々しくて、身体が震え始める。
すると相手はそんな僕に気付いたように、まるで宥めるように、僕の肩を優しく撫でてくれた。
………そんな事は、誰にもして貰った事なんて無かった。
「迎えが来たみたいだな…」
「え…、」
目を細めながら呟く男を不思議に思っていると、次第に襖の向こう側から足音が聞こえて来た。
起き上がろうとすると、男に寝ていろと言われて肩を押される。
足音はやがて襖の向こう側でピタリと止まり、少し間を開けてから、それは開かれた。
見ると、そこには母が居た。
拙い、と思ったけれど、どう云う訳か母の顔には、不機嫌な色は少しも浮かんでいない。
「御島…久し振りねぇ」
いつもとは全く違う、まるで媚びるような声色で男に話し掛ける母を見て、呆気に取られた。
兼原と云う恋人が居る癖に、御島にまで色目を使っている母の気が知れない。
でも御島の容姿は、こう云う人を美形と呼ぶのだろうと思える程に魅力的だし、
男の僕から見ても顔立ちも整っていて格好いいと思えるのだから……
母が色目を使ってしまうのは、無理も無いのかも知れない。
胸中が複雑なのは、明らかに具合が悪そうな僕に言葉を真っ先に掛けるでも無く、
男しか見えていない母の姿が、ほんの少し悲しく思えたからだ。
それは今更だと自分に言い聞かせて、僕は傍の御島へと視線を向ける。
すると御島はスッと立ち上がって母を見下ろし、軽く会釈しながら柔らかな笑みを浮かべた。
それは一瞬でも、見惚れてしまいそうな程に、魅力的な笑みで――――
「美咲さん、お元気そうで何よりです。…以前お会いした時より、一層綺麗になりましたね。」
だけど急に、御島の口調が丁寧なものに変化した事に、僕はあまりの驚きで見惚れる事も出来なかった。
母は掛けられた言葉に否定していたけれど、顔はひどく喜んでいて、まんざらでも無さそうだ。
先程の廊下で会った女性と同様に、母はうっすらと頬を紅く染めている。
丁寧な口調になるのは、この男にとって、母が敬われている存在だからだろうか。
確かに母は沢山の知り合いが居るし、訪問客も少なくはない。
でも僕は、御島のような人間は見た事が無く、母とどう云った知り合いなのかと訝るばかりだ。
何者にも従わなさそうなこの男が、どうしてさっきの女性や母に丁寧な口調で喋ったりするのかと、
そればかり気になって僕はつい、まじまじと御島を見てしまう。
御島は相変わらず、魅力的な……柔らかな笑みを口元に浮かべていた。
でも良く見るとそれは形だけのようで、切れ長の黒い双眸は、穏やかさが全く無い。
刺々しいとも感じられる程、目が笑っていないように見えた。
その事に気付くと次第に、御島の物腰が慇懃無礼なものに思えて来る。
だのに母は全く気付いていないようで、御島の傍へと更に寄って、会話を続けていた。
「御島はもう、身を固めたの?前は随分、遊んでいたでしょう、」
「いえ…縛られるのは、まだ好きにはなれませんから」
母の問いに、御島の柔らかな笑みは微妙に、苦々しいものに変わった。
それでも御島の整った容姿の所為か分からないけれど、惹き付ける事には変わらないように見える。
「相変わらずねぇ……ねぇ、御島、また前のように会えないかしら?」
絡みつくような声色が耳に入った途端、僕は身体の怠さに耐えながら慌てて上体を起こした。
母さん、と声を掛けると彼女はようやく僕に視線を向けて、まるで今気付いたと云うように「あら」と声を上げた。
「聞いたわよ。また人に迷惑掛けて……どうしてあんたは何時もそう、弱いのよ。全く、男ならもっとしゃんとして欲しいわ」
「……ごめんなさい」
御島に話し掛けていた声とは打って変わって、冷たい言葉が投げ付けられた。
今更ながら、母が心配してくれると少しだけ期待していた僕は、湧き上がる感情をグッと抑えながら謝罪する。
現実はやっぱり思い通りには行かないみたいで、ひどく惨めだった。
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