黒鐡......04
御島は何も云わず、それ所か母に視線を向けたままで、僕を見ようともしない。
何か庇うような発言をしてくれるんじゃないかと、僕は御島に対しても浅ましい期待を抱いていた。
少し優しくされただけで、相手に期待してしまうなんて、馬鹿みたいだ。
所詮は、他人じゃないか………一体僕は、何を考えているんだろう。
甘えが有る自分を叱咤して、人の優しさなんて期待しちゃいけない…と、そう考えながら怠くて重い身体を動かして起き上がる。
視界が少しだけ揺れたけれど、倒れそうな程のものじゃない。
その事に安堵しながら脱がされたコートを羽織って、解かれたタイを結んで締め直すが、今度は失敗してしまう。
朝のあれは紛れだったのかと思いながら、ちゃんとした結び目にしようと、苦戦する。
「今日は残念だけど、予定が有るから……今度ゆっくり、話がしたいわ」
名刺を御島の胸ポケットに入れて、にこやかに微笑む母を見て、美しいと思った。
あんな風に柔らかく微笑まれたら、大抵の男は応じるに決まっているのだ。
だけど御島は気おくれした様子も無く、ゆっくりと頷くものだから……彼はとても、女慣れしているのだろうと思える。
母以上に美しい女性など、見慣れているのでは無いかと考え、何だか大人の世界のようで
まだ一度も人を好きになった事が無い僕は、いたたまれなくなる。
なるべく注意しながら出入り口の方へ向かうが、足元はフラついて、危なっかしい。
「リン、ちゃんと歩きなさい。」
「…リン?」
僕に対する呼び方を聞いて、御島が訝しげに僕を見た。
けれど僕は何も言葉を返さず、足を進めて廊下に続く襖の前に立つ。
リンと云う呼び名は、娘が欲しかったと何度も云っている母が、いつからか勝手に呼び始めたものだ。
違う名で呼ばれる事は、僕自身を見ていない事に繋がるから
本当は嫌なのだけれど……母の気持ちを考えたら、拒む事は出来無い。
男の癖にしょっちゅう倒れて高熱を出すような、僕みたいな手間が掛かる子供を持って、母はとても可哀想な人なのだ。
そんな母の望みが、娘が欲しかったと云うのだから、申し訳無いとしか思えない。
だから、呼び方で母の気が済むならと思って、初めてリンと呼ばれた日からずっと僕は何も云わなかった。
でも、それをこの男に一々説明する義理は無いし、吐き気も強まって来た所為で、あまり人と喋りたくも無い。
「私、娘が欲しかったの。産むなら絶対に、女って決めてたから……」
母は御島に言葉を掛けるのが嬉しいのか、顔を輝かせて僕に対する呼び名の事を、ちゃんと説明していた。
よっぽどこの御島と云う男が気に入っているのか、一向に帰る気配は無い。
兼原が居る癖に、一体この男とはどう云う関係なのだと考えながら、僕は二人に背を向けて廊下を眺めた。
少し暗い廊下が先に続き、奥が突き当たりになっていて左側の曲がり角から、うっすらと灯りが見えた。
恐らく、あすこから外へと出られるのだろうが……距離が、長すぎるように思える。
立っているのでさえ辛いのに、あすこまで母の歩調に合わせて歩けるだろうか。
先に、自分のペースで歩いて外に出てしまった方が、楽なのでは無いだろうか。
そう考えても熱で鈍くなった頭では上手く答えが出せず、
立っているのがあまりにも辛くて、身体を預けるようにして壁に寄りかかった。
座り込んで休みたくなるのを堪え、上手く働かない頭を片手で押さえる。
自分の手が冷たいからなのか分からないが、触れた額はとても熱く感じた。
よもや熱がまた更に上がったのかと考えながら、部屋の方を振り向いて、母を見遣る。
だけど視線は無意識に、御島の方に向かってしまう。
視線を向けた先で、黒い双眸と目が合って、僕はひどく驚いた。
視線なんて感じなかったし、いつから此方を見ていたのだろう。
ただボーっと御島を眺めていると、相手は途端に眉を寄せ、言葉を交わしている母を置いて此方へ近付いて来る。
咄嗟に、逃げるように身体を少し動かした瞬間、僕は何かにぶつかった。
「大丈夫かい、鈴くん」
男の手が僕の肩を掴んで、少し心配そうな声が上から降って来る。
この声は……兼原だ。
無意識に顔を上げても、目にした顔は見知らぬもので、けれどそれは僕が兼原の顔を覚えていないからだ。
「…大丈夫、です…」
自分の声が思いのほか弱々しくて、その上、肩を他人に掴まれていると云うのに僕は何も感じなかった。
喉の奥が痛くて、吐き気はまた強まったが、近付かないで欲しいと思う気持ちは無い。
「あら、兼原。もう来たの…、早いわね」
僕に声を掛ける訳でも無く、僕の傍に居る兼原に向けて、母は嬉しそうに言葉を発した。
その声に遅れながらハッとし、僕は相手から直ぐに離れて軽く頭を下げ、ぶつかってしまった事を謝罪した。
「ええ、迎えに上がりました。…鈴くん、あれぐらいで謝らなくても、大丈夫だよ。」
優しく穏やかな言葉を掛けられて、僕はたどたどしく、すみませんともう一度謝った。
「美咲さん、鈴くんの具合が悪そうだけれど…どうかなさったのですか?」
僕の様子を訝ったのか兼原は心配そうに尋ねるけれど、
それに対しての母の返答は、気にしなくて良いわと云う素っ気無いものだった。
僕も同情されるのはまっぴらご免だし、出来るなら兼原には世話になりたくない。
と云うよりも、僕は誰の世話にもなりたくないのだ。
今まで迷惑ばかり人に掛けて来たのだから、もう誰の手も煩わせたくなかった。
「リン、私はこれから兼原と出掛けるけど…あんたは一人で帰れるわよね?」
そんな無茶な、と言ってやりたい。
何分、今直ぐ座り込んでしまいたいぐらいに身体は怠いし、どんどん具合は悪くなる一方なのだ。
でも僕は、母の言葉に頷くだけで、誰にも甘えたりはしない。
僕の所為で苦労を背負って来た母の、唯一の愉しみを、兼原との時間を……元凶の僕が、奪う資格は無いのだから。
「けれど鈴くん、顔色が…」
「…大丈夫です。楽しんでらして下さい」
他人から見たら、僕の顔色はどれ程、悪いのだろうか。
そんな事を少しばかり気にしながら、咳が出ないようにと願いつつ、口元を緩めて作り笑いを浮かべ、頭を下げた。
母は、幸せになるべきなのだ。
兼原と一緒に居る時の母は、とても幸せそうだから……僕では、母に迷惑を掛けるばかりだから。
だから頭を下げたのは、母を宜しくと云う意味も込めていた。
納得したのか、僕の身体を少し気に掛けながらも、兼原は直ぐに母とその場を離れて行く。
兼原の前で母は御島に全く興味が無いと云うような態度を現し
御島もまた、同じように振舞っていた所為か、兼原は御島の事をあまり気にした様子も無かった。
二人の姿を見送り、奥の突き当たりを曲がって見えなくなった途端、僕は気が緩んで壁に凭れかかった。
そのまま崩れるように床にへたり込むと咳が何度か出て、口元を抑えながら、これからどうやって帰ろうかと悩んだ。
だけど頭は上手く働かなくて、財布の中に金が有るか確認する事も思い付かなくて――――。
御島の足が、ゆっくりとした足取りで、此方に近付いて来るのが目に入った。
彼が通り過ぎるには僕が此処で座り込んでいては邪魔だろうと
それだけは考える事が出来て、廊下の広さすら忘れて壁に片手をつき、僕はさっさと立ち上がろうとする。
咳き込みながらも急いで立ち上がろうとしたのに、怠い身体は機敏に動けない。
「鈴、無理しなくていい。じっとしてろ、」
通り過ぎるかと思っていた御島は低い声音で言葉を掛け、僕の前まで近付くと床に膝を付いて………
僕の身体に片手を回して抱き寄せ、背中を優しい手付きで撫でてくれた。
そんな行為など、今まで一度もされたことの無い僕にとって、それはとても衝撃的だった。
背中を撫でられて咳が治まり始めると、僕は眼を少し見開きながら御島を見つめた。
だけど御島は何も云わず、いきなり僕を軽々と抱き上げてそのまま部屋に戻り、襖を音も立てずに閉める。
ゆっくりと畳の上に下ろされた僕は口元を抑えながら、小さな咳を何度か繰り返した。
どうしてこの男は、僕に構ってくれるんだろう。
どうしてあんな風に、優しく背中を撫でてくれたんだろう……。
上手く働かない頭の中では、その疑問だけがグルグルと回るだけで、答えは一向に出て来ない。
御島は僕の前で腰を下ろして胡坐をかき、目を細めて口元に柔らかな笑みを浮かべた。
その表情を見て、僕は一瞬だけドキリとした。
母に向けられたものと違って、細められた双眸はあまりにも穏やかで……
優しいとも感じられる笑みと目を細めるような仕種は、精悍で整った顔には、あまりにも似合い過ぎている。
いたたまれなくなって視線を逸らした瞬間、御島は僕をまた抱き寄せた。
胸の中にすっぽりと収まっている事に遅れて気付き、慌てて離れようともがくけれど、力が入らない。
「あの女の為に、あんな一面を見せるなんてな…あんな女に気を利かせるなんて、早々出来ることじゃねぇよ。……鈴、おまえは優しいな」
あの女とか、あんな女とか云っているのは、母の事だろうか。
自分の母を馬鹿にしたような物言いに一瞬腹が立ったけれど、次の瞬間、頭の中は真っ白になった。
唐突に御島は僕の頭をゆっくりと、まるで褒めるように、それはとても優しい手付きで撫でて来たからだ。
―――――――信じられない。
そんな事、誰にもして貰った事など無いのに……。
どうして彼がそんな事をするのか考えようとしたのに、熱の所為で、頭はひどくぼんやりしている。
身体が熱過ぎるのは、きっと熱が上がったからだ。
動悸が速まっているのは、少し息苦しいからだ。
「…くは、僕は…優しく、なんか…」
優しいだなんて言葉は掛けられた事も無くて、初めて掛けられた言葉に狼狽え、弱々しい声が漏れる。
「鈴…お前は、いい子だな。」
折角否定したのに、穏やかな口調で囁かれる。
その言葉が、物言いがどうしてかひどく胸に沁みて、僕は別に悲しくも無いのにどうしてか………涙が、零れた。
頭を撫でられるなんて初めてで、いい子だなんて云われた事も初めてで、
こんな風に抱き締められて、優しくされた事なんて今まで無かった。
悲しくも、淋しくも辛くも無いのに、涙は止まらなくて。
御島はそんな僕を見て、弱いとも情けないとも、男なのに泣くなとも云わずに……ただ、頭を撫で続けてくれた。
頭を撫でてくれる感触は、本当に、気持ち好過ぎた。
目眩のように、くらくらする程に気持ちが好くて、何も考えられないぐらいに心地好くて、意識が朦朧として来る。
御島の胸に寄りかかるように顔をつけて、僕は緩やかに眼を閉じた。
「強がる所も、昔と変わらねぇな……」
今にも途切れそうな意識の中で聴こえた、御島の言葉が理解出来ない。
昔、何処かで……この男と、会ったのだろうか。
途切れ途切れに言葉が浮かんで、額に何かが触れた感触をぼんやりと感じながら――――
僕はまるで力尽きたように、深みへ、意識を沈ませた。
【 ← 前 】 / 【 次 → 】