黒鐡......05
頬を撫でられる感触が擽ったくて、少しだけ身を捩ると、普段寝ている自分の布団とは違う感覚に違和感を覚えた。
ゆっくりと瞼を開けると、見慣れない天井が少しぼやけた視界に飛び込んで来て、暫くの間僕はぼんやりとそれを眺める。
「起きたか。鈴…具合はどうだ、」
低い声が聴こえて、視線を横に動かせば、見覚えの有る男が此方を見下ろしていた。
誰だったろう、と上手く働かない頭で考えながら、相手の質問には答えず、ただぼんやりと男を見つめる。
「おまえ、寝起きが悪いのか。……無防備過ぎるな、」
男の目が細められて、ゆっくりとした動きで相手は顔を近付けて来た。
その際、スプリングの軋む音が耳に入って、次第に意識がハッキリとし始める。
完璧に目を覚まそうと数回瞬きを繰り返し、ようやく自分がベッドの上に居る事に気付く。
此処は何処だろうかと考えた矢先、額にひんやりとした何かが触れた。
触れたものが相手の唇だと気付いて、驚きで一気に目が覚めてしまう。
いつの間にか、覆い被さるような形になっていた相手に更に驚き、僕は悲鳴のような声を小さく上げて、逃げるように身体を動かした。
けれど相手はそんな僕を見て喉の奥で笑い、いとも簡単に僕の両手を捕らえると、素早く一纏めにした。
「元気そうで安心したぜ……で、何をそんなに驚いてやがる、」
「く、唇が…」
僕の額に触れた、と云おうとしたけれど、後の言葉はあまりのショックで続かなかった。
だが相手は、僕の云おうとした事を理解したように、ニヤリと口端を吊り上げた。
「初めてか、」
唐突な問いの意味が分からず、眉を寄せて相手を見上げる事しか出来無い。
すると御島は、一纏めにしていた僕の両腕を、いきなりシーツの上へと押さえ付けて来た。
「な…何を…っ」
丁度自分の頭の上で両腕を押さえ付けられてしまい、この行動に何の意味が有るのか分からない僕は、震えた声で問う。
声が震えてしまったのは、御島が恐いからだ。
細められた瞳の奥がギラついていて、獰猛な肉食獣みたいで……恐ろしいからだ。
その上、長身で体躯の良い御島と痩身の僕とでは体格差が有り過ぎて、
圧倒的な御島の迫力と威圧感に、どうしようもなく身体は震えた。
「そう怯えるな。別に取って食いやしねぇよ、」
宥めるように穏やかな口調で囁くと、御島は僕の頬に片手を添え、指で目元をゆっくりとなぞって来る。
人に触れられる感触に、僕は思わず短い悲鳴を零してしまった。
顔を思い切り反らすと、その手は再び触れて来る事は無かったけれど、
理解の出来無い状況が恐くて、僕は身体を捩って逃げようともがいた。
「鈴、暴れるな。熱がまた上がるだろう、」
御島は僕の両腕を抑えつけたまま、物静かな口調で囁く。
獰猛そうなこの男には、その口調はとても似合っていなくて、半ば呆然となった僕は動きを止めた。
大人しくなった僕をまるで褒めるように、御島は頭を撫でて来て……不思議と、それはひどく心地好かった。
「撫でられた事が無さそうだな…どうだ鈴、気持ち好いか、」
乱暴でも無く、髪を梳くようにして頭を丁寧に撫でられ、御島の意外な程の優しい手付きに僕は素直に頷いてしまう。
視線をたどたどしく彷徨わせると、ベッドの広さが実感出来て、無意識にうっすらと唇を開く。
「すごい…こんな広いベッドの上なんて、乗った事が無い」
思わず素直な感想を漏らしてしまった僕の耳に、御島の低い笑い声が聞こえた。
「ベッドの上で男に組み伏せられている感想が、それか。……全く、おまえは面白いな」
御島の笑い所が分からず、僕は怪訝に思って眉を寄せる。
ベッドの上で男に組み伏せられているからって、何だと云うのだろう。
もし僕が女性ならばそれは危ういかも知れないけれど、生憎僕は男だから
別に組み伏せられていようと、そこがベッドの上だろうと、気にする必要も無い。
「で、初めての広いベッドでの寝心地はどうだ、」
相変わらず僕の両腕を押さえつけたままで、御島は少し愉快そうに尋ねて来た。
あの黒々しい雰囲気も、鋭く射抜くような視線も気にならないぐらいに今は薄れていて、御島は機嫌がいいのだろうかと考えながら口を開く。
「…気持ちが好いです。医薬品の匂いもしないし、」
病院や学校の保健室でしかベッドを使う機会が無かった僕にとって、医薬品の匂いが漂わない室内で、ベッドの上で寝たのも初めてだ。
それが少しばかり嬉しかったが、たかがそんな事ぐらいで喜ぶ自分の子供じみた一面が、直ぐに恥ずかしく思える。
「随分細い身体だと思ってはいたが……おまえ、身体が弱いのか、」
そうですと答えれば、相手は同情して来るのでは無いかと考えた僕は、相手の問いに否定も肯定もしなかった。
けれど沈黙が肯定の意味だと御島は捕らえたようで、ただ一言、そうかと短い言葉を口にした。
名前以外何も知らないこの男に、自分が病弱な事を云いたくも無かったし、同情されるのはまっぴらご免だ。
だが御島の瞳には同情の色は浮かんでいなくて、その事に少しばかり安堵したけれど、自分の弱い部分を知られた事に気分が沈む。
思わず目を伏せ掛けた途端直ぐに名前を呼ばれ、目線をゆっくりと上げれば、威圧感の有る黒い双眸と目が合った。
一瞬怯み掛けた僕は、母以外の人に名を呼び捨てにされたのも、初めてだった事に気付く。
祖母は僕の事をいつも、あなたとか、あれとか呼んでいたし、祖父や親戚だって僕の名を呼んだり呼び捨てにした事は無い。
この男がしてくれる事は、僕にとって初めてな事が多すぎる気がする。
でもそれは僕が他人とは関わらず、ずっと狭い世界に居たからだろう。
「人と話すのに、慣れても居なさそうだな。近くに寄られるのは嫌いか、」
御島の問いに、心臓を鷲掴みにされたかのように、ドキリとした。
まるで全て見透かされているみたいで、嫌になる。
どうして分かるのかと言いたげな眼差しを向ける僕を、
御島は冷ややかに見下ろしているだけで――――――僕はその目がとても、恐かった。
自分の嫌いな部分も、弱い部分も全て見透かして、僕の何もかもを捕らえてしまうような、
御島の双眸が恐くて仕方無いのに、目を逸らす事が出来無い。
「何をそんなに怯えてやがる。そんな目で見られると、堪らなくなるだろう、」
何が堪らないのか分からず、僕は震える身体を心中で叱咤しながら、あの双眸を見つめ続ける。
すると御島は手を動かして唐突に、僕の頬をそっと撫でて来た。
それはまるで壊れ物を扱うかのような丁寧な触り方で、他人に触れられる不快感を直ぐには感じられなかった。
「俺の事を忘れているんだと知った時には、どうしてやろうかと思ったが……」
くくっと、冷たく低い声で笑い、御島はいきなり僕の顎を掴んで固定した。
御島の言動に、半ば呆然としていた僕の脳裏に、意識が途切れる寸前に彼が云った言葉が、一瞬だけ浮かんだ。
昔と変わらない、と彼は確かに云って――――。
そこまで考えた途端、気絶する寸前に額に何かが触れた感触と同じ感触を、僕は今、同じ場所に感じた。
御島が顔をゆっくりと離して、それがキスと呼べるのか分からないけれど、額にキスされたのだと遅れながら理解出来た。
理解した途端、熱が急激に上がって、この感覚は怒りなのだと思いながら逃げるように身を捩る。
けれど顎は掴まれて固定されているし、両腕も抑え付けられている所為で、逃げる事も叶わなかった。
「逃がすかよ。あのガキが、こんなに美人になっているなんて反則だろう、」
あのガキ、とはやはり僕の事だろうか。
ガキと云うからには、幼い頃に会ったのだろうか。
疑問を頭に浮かべていると、御島は急に顔を近付けて来て、それに一瞬怯んだ僕の唇に冷たく柔らかいものが触れた。
暫くの間何をされたのか理解出来ずに硬直し、今のは何だろうと考えながら、間近の御島から目が離せない。
ようやく、触れたものが相手の唇だと理解した時には、彼は既に唇を離していた。
目を見開いたまま何も云えない僕を見下ろして、御島はひどく愉しそうに、口元を緩めた。
「初々しい反応だな、」
「な…っ、」
馬鹿にされたように感じた僕は一気に我に返り、それと同時に腹立たしくなる。
こんなに、他人に対して憤りを覚えたのは、初めてだ。
「あ、あなたは一体、何のつもり…ンっ…!」
怒りに任せて発した言葉は、再度重なって来た御島の唇で掻き消された。
今度は噛み合わせが深くなり、御島は僕の唇を吸い上げて、軽く噛んで来る。
驚きで一瞬肩を跳ねさせた僕には構わず、御島は柔らかな舌を侵入させた。
そこでようやく僕は、これはキスなのだと云う事に、今更ながら気付いた。
キスなんて他人にされた事も無く、驚きが強い所為なのか分からないけれど、嫌悪感も感じない。
「ふ……ん…っ、」
御島のキスは、獰猛そうな彼には似合わないぐらいに優しくて、舌に噛み付いて抵抗しようと思う気さえ起こさせないぐらいに巧みだった。
いつの間にか両腕は解放されていたけれど、僕はその手を動かして、御島の肩を掴む事しか出来なかった。
まるでしがみつくように相手の肩を掴んでいると、きつく舌を吸い上げられ、耳朶を指でなぞられる。
背筋がぞくぞくとしたけれど、それは不快感や嫌悪感のものでは無く、とても気持ちが好い。
上手く息がつけずに意識は朦朧として、身体が熱くなり始めた頃に、唇がゆっくりと離れてくれた。
軽く息を切らして放心しながら、彼の喉が上下するのを目にした僕は、ニヤニヤと笑うその表情へと視線を移す。
「美味かったぜ。…鈴、気持ち好かったか、」
満足そうに笑う御島の言葉に、やっと自分の唾液を飲まれた事を察した僕は、急激に熱くなる顔を反らそうとする。
だけど御島の手が、まだ僕の顎を掴んだままの所為で、反らせない。
何て男だろう……どうして、こんな事をするのだろう。
「な、何で…どうして、こんな事…」
どうしてか速まる鼓動を感じて、シャツの胸元を握り締めて、視線を逸らしながら震えた声で尋ねた。
すると御島は喉奥で低く笑ったものだから、僕は無意識に相手の方へ視線を戻してしまった。
「どうして、だと?鈴は可笑しな事を訊くな……そんなの、おまえが欲しいからに決まっているだろう、」
「欲しいって…、」
僕はモノじゃない。
それに……それに一番の問題が、有るじゃないか。
「ぼ、僕は、男ですよ」
きっとこの顔の所為だろうと、僕は考える。御島は僕を、女と勘違いしているのでは無いかと。
父の傍に居たのだから、息子だと云う事は知っているだろうとは、残念ながら考えられなかった。
考えられないぐらい、僕は予想外の出来事にひどく混乱していた。