黒鐡......06
「ああ、ちゃんと付いているな、」
「ひっ」
御島は唐突に僕の股間を服の上から撫で上げ、大して気にはして居ないように云うと、直ぐに手を離した。
信じられないと云った面持ちで相手を見つめながら、僕は微かに震える唇を薄く開く。
「き、キスは普通、女の人とするものですよ……御島さんなら、女性の一人や二人…」
「安心しろ。俺は吐き気がする程、女嫌いだ」
耳にした御島の言葉に、そんな馬鹿な、と言いたくなった。
母の前ではあんなに、それこそ女慣れしているような態度をしていたのに。
「俺は運が良い。気になっていたガキがこんなにも美人になっていて、俺の好みに近くなってやがる。
その上、誰の手も付いていないと来れば……後はもう、俺のものにするしか無いだろう、」
御島はそう云うと、ギラついた双眸を細め、冷たい笑みを浮かべた。
今にも獲物に喰らい付きそうな迫力に恐怖を感じて、僕は逃げようと直ぐに身体を動かした。
けれど両手は解放されているものの、顎はまだ固定されているから、顔が動かせない。
「おい鈴、じっとしていろ。まだ病み上がりなんだ、」
「い、いやだ…っ、離してくださいっ」
必死になって御島の肩を何度か叩き、押してみたりもするけれど、相手は微動だにせず
痛くも痒くも無いと云った様子で、それ所か必死な僕を見てニヤニヤと笑っている。
何度も無駄な抵抗を繰り返したけれど、体力の無い僕は直ぐに疲れ、無意識に相手の肩を再び掴んでしまう。
「気は済んだか。……鈴、腹は減って無いか」
まるで何事も無かったかのように、御島は話題を変えたものだから、呆気に取られてしまう。
キスをして、僕のあんな所にまで触れたのに、直ぐに話題を変えられるこの男の神経が、理解出来ない。
「べ、別に…減っていません。あ、あの…此処は何処ですか、」
まだショックから立ち直れずに声は震え、相手が直視出来無い。
御島は僕の言葉を耳にすると、ようやく顎を掴んでいた手を離してくれた。
「俺の家だ。…気に入らねぇか、」
気に入ら無いか、と訊かれれば、そうでも無い。
何処と無く野生的な御島からは想像も出来無い程、室内は清潔で綺麗だし、外からの物音も一切聞こえない。
静かで清潔な空間は、僕にとって好ましい環境だ。
「気に入らなくは…無いですけど、でも…どうして僕が、御島さんの家に…」
「生憎、俺はおまえの家を知らないからな、」
耳にした言葉がしっくりと来ず、僕は視線を逸らしたままで思考を巡らした。
母と親しそうに思えたのに、家を知らないと云う事は有り得るのだろうか。
それに、幼い頃に会ったのは家ではなく、外でと云う事だろうか。
けれど僕はこの男の事など知らないし、覚えてもいない。
もし知っていたとしても、こんなにも一般人離れしている男を忘れる事など、有り得ない筈だ。
御島は人違いをしているのでは無いかと考えながら、口を開く。
「それなら、あの場に放置してくれれば良かったのに…」
思わず零れた自分の言葉に、それはそれで父の家の人に迷惑を掛けたかも知れない、と
直ぐに考え直した途端、御島は苛立ったように舌打ちする。
「おまえ…自分の面の良さを知っていて、そんな事を云っているのか、」
いきなり訳の分からない事を云われて、僕はいささか戸惑ってしまう。
顔の良さと僕の発言と、一体何が関係有るんだろうか。
疑問符を浮かべた僕は御島へと視線を戻すが、強い瞳と目が合ってしまい、一瞬だけ怯んだ。
「鈍い奴だ…それで良く、今まで手を出されなかったな。……あの女が傍に居た所為か、」
御島の云うあの女とは、多分母の事だろうと云う事だけは理解出来た。
そう云えば御島は、母の前ではあんなにも慇懃な態度を取っていた癖に、どうして母が居ないと態度が豹変するのだろう。
母とは、どんな知り合いなのだろう。
一人で色々と考えていると、御島は急に、低い笑い声を立てた。
「一人であれこれ考える前によ、分からねぇ事は何でも訊け。甘えて見せろよ、」
……甘える?
人に何かを尋ねる事が、甘える事になるのだろうか。
でも僕は、人に甘えたくなど無い。そんな事をすれば、相手に迷惑が掛かるじゃないか。
考えた事を口には出さず、御島をただ見上げていると彼は軽く鼻で笑い、やれやれと呆れたような呟きを漏らした。
「兎に角、何か食え。二日も食ってないんだ…そろそろ何か食わないと、ぶっ倒れるぞ」
「ふ、二日っ?ぼ、僕、二日間も…此処に?」
常に落ち着きを保ち続けようと気を張っていた僕だったが、御島の言葉を耳にすると
流石に慌てふためき、急いで帰らなければと口にして、起き上がろうとした。
だが御島に肩を押され、彼はそれ程力を込めていないようなのに、僕は呆気なくシーツに沈む。
「まあ落ち着け。二日も意識が無くてな…流石に焦った、」
「あの、あの…すみません、帰りますっ」
外泊なんてした事が無いし、一人で外出しても必ず夕方には帰っていた僕が
名前以外全く知らない他人の家で、のうのうと寝ていただなんて最悪だった。
しかも二日も世話になっていたなんて、信じられない。
他人に迷惑を掛けたく無いし、関わりたくも無いと云うのに……。
「だから、落ち着けと云っているだろう。何で分からねぇんだか、この坊やはよ」
「ごめんなさい、迷惑を掛けた事は謝ります。だから、だから…直ぐに帰りますか、ら…っ」
今度は勢い良く起き上がると、途端に視界がぐらりと揺れて、軽い目眩を起こしてしまう。
力が抜け掛けた瞬間、御島は僕の身体を支えるようにして抱き起こし、ゆっくりと優しく、背中を撫でてくれた。
他人がこんなにも近くに居るのに、激しい嫌悪感が湧かず、どうしてか速まる自分の鼓動を感じる。
「いいか鈴。おまえはまだ病み上がりだ…今日一日はじっとしていろ。明日になれば、家まで送ってやる」
「で、でも…でも、母が…」
心配する、ではない。母はきっと、怒るだろう。
彼女の留守中、一人で勝手に外出すると必ず僕を叱った母だ……怒らない訳が無い。
「安心しろ、鈴。あの女には連絡を入れて置いた。……それにな、」
僕の前髪を掻き上げるようにして頭を撫で、御島は口の片端を上げるだけの笑みを浮かべた。
その笑みが何を意味しているのか分からずに、まだ少しくらくらする頭に眉を寄せながら、僕はじっと相手を見つめる。
「具合の悪いままで戻れば、またあの女に迷惑を掛ける事になるだろう、」
そう云われて、僕はその通りだと認めざる負えなかった。
御島は、まるで僕の扱い方を心得ているようだ。
自分が、誰かの思い通りになるのは嫌だ。でも、母に迷惑を掛けるのはもっと嫌だった。
母と云う弱点を悟られた事に、僕は胸に不快感を抱いたけれど、何とかそれを抑え込んだ。
「すみません、ご厄介になります…」
こんなにも多く人と言葉を交わした事が無かった所為か、唇を動かすのが少し気怠げになり始め
弱点を悟られた事もあって沈んだ声でそう返すと、御島は少し驚いたように一瞬だけ眉を上げた。
「…ガキの癖に、礼儀が成っているな」
「ガキって…、」
御島の発言が少し癪に障ったけれど、男にして見れば、成人になっていない僕なんか、まだまだ子供の内なのだろう。
そう思い直して目を伏せ、何も云わずにいると、御島は急に僕の首筋へと顔を押し付けて来た。
「な、なん、なんですかっ」
ぎょっとして男の胸を押し戻そうとするけれど、やはり非力な僕では、彼を押し戻す事なんて出来やしない。
嫌がって身を捩るといきなり首筋を舐められ、僕は情けなくも、ひっ…と悲鳴を漏らしてしまう。
そんな僕には構わず、御島は僕の首筋に唇を押し当ててきつく吸い上げて来た。
「ぅ、あ…っ」
微かな痛みを感じた僕は、嫌悪感より何よりも、身体が震える程の恐怖を感じる。
怯える僕の姿にくくっと笑って、御島は首筋に軽く歯まで立てて来たものだから
恐怖が強まった僕はさっきより大きな悲鳴を上げて、逃げるように必死に腰を引く。
「いや…嫌だっ、やめてくださいっ、恐いッ」
こんな事をされたことなんて無いし、御島の雰囲気があまりにも黒々しくて獰猛で、
このまま噛み殺されてしまうのでは無いかと、強い畏怖が僕を襲う。
確かライオンはいつも、たった一咬みで獲物を殺す生き物なのだと、
どうしてかそんな考えだけが頭の中でぐるぐると回り、それが一層恐れを強める。
「……ああ、男は恐い生き物だ。それをじっくりと教えてやる、」
御島より恐い人間など居るものかと考えた僕を、御島はシーツの上にゆっくりと押し倒した。
覆い被さって来た御島の威圧感に緊張の所為か、口の中が渇いて胸の辺りがむかむかし、次第にそれは強まってしまう。
咳が出そうだと考えた瞬間、直ぐに手で口元を覆い、僕は顔を反らして何度か咳き込んだ。
すると御島は何も云わず、あの冷たくて気持ちの好い手を、僕の額に当てて来た。
息を呑み、驚く僕とは裏腹に、御島はどうしてか眉を寄せて舌打ちを零す。
「拙いな…また熱が上がっている。悪かった、大人しくさせておくんだったな」
少し心配そうに顔を覗き込まれ、その上謝罪された僕は、否定するように首を一度だけ横に振った。
御島が変な事をしなければ、僕は逃げたりも暴れたりもしなかったけれど、
そんな風に謝られてしまったら、僕が勝手に暴れたから悪いのだと考えてしまう。
「すみません…僕、あの…少し休めば、よくなりますから…」
思えば、僕はこの男に迷惑ばかり掛け、弱い所ばかり見せている気がした。
名前しか知らない、家に戻ればもう二度と会わないであろう他人に、だ。
「……身体が弱いのも、色々と面倒だな」
軽い溜め息を吐かれてそう云われたけれど、僕は傷付くことは無かった。
僕は誰かの言葉や行動に傷付いた事なんて無いし、面倒だとか、迷惑だとか、そんな言葉は云われ慣れている。
だから僕は表情を変える事無く、迷惑を掛けた事に対して、すみませんともう一度謝罪を口にした。
…………家に戻れば、またあの静かな、一人っきりの時間が始まる。
それまでは、御島に迷惑を掛けないように注意していよう。
僕は出来るならもう………誰とも、関わりたくは無いのだから。
結局熱は一日では下がらず、大事を取って数日間御島の世話になった。
修学旅行すら、身体が弱い為に行けなかった僕にとって、外泊した事は夢のようだった。
その上御島の家は広くて、浴室だって一人で入るには大き過ぎる程のものだった。
食事もとても豪勢で、母が料理をしない上、外食を僕と共にする事も無い為、
出された料理は食べた事も見た事も無い物ばかりだった。
食の細い僕は、少ししか食べる事は出来なかったけれど、御島はそんな僕を叱る事もしなければ呆れた様子も見せなかった。
喜びを通り越して逆に、申し訳なく思ってしまった僕に、彼は必要なものが有れば何でも云えと
とても問題の有る発言を何度も零した。
こんなに良くして貰っても、何もお返し出来無いと僕が告げても、御島はただ愉しそうに目を細めて、そんな物は必要ないと返したのだ。
その言葉に納得が行かなかった僕を抱き寄せて、御島は唇を重ねて来て………今はこれだけで十分だと、そう云って柔らかく微笑った。
僕は御島と云う男が、全く理解出来ない。
考えて見れば、他人を理解出来ないと思ったのも初めてだ。
だって僕は………理解出来るとか、出来無いとか思えるまで、人と関わった事なんて無いもの。
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