黒鐡......07



 僕の初めての外泊は四日間となり、その間御島は自分の事を語らずに僕に質問ばかりしたし、
 抱き締めたり触れて来たり、キスだって何度もして来た。
 僕がどれだけ嫌がっても、気にしていないように御島は強引に唇を重ねて……
 けれど、いつもあの男がするキスは優しいものだった。
 御島について尋ねたり、どうして優しくしたりキスをしたりするのか、問うた事は無い。
 何かを尋ねれば、それだけ言葉がより多く、交わされる事になるからだ。
 この男の存在を早く忘れる為には、なるべく言葉を交わさず、あっさりとした別れをするに限る。
 それに御島自身、理由を口にしないから、僕はからかわれているんだと勝手に決め付けた。
 満足そうにニヤついて、愉しそうに目を細めているあの表情を見たら、普通はそう考えてしまうものだろう。
 動揺する僕を見て、きっと御島は愉しんでいるに決まっている。

「此処がおまえの家か…」
 僕の案内でようやく家に辿り着き、車から降りた御島は物珍しそうに呟く。
 僕は先ほど、走行中の車内で御島に深く濃厚なキスをされて、腰に力が入らない状態になっていた。
 運転手が居るのに御島は全く気にした素振りも無く、平然と唇を重ねて来たのだ。
 その際、運転手が居る事もあってひどく抵抗したけれど、この男が相手ではそれは抵抗とも呼べず、無駄な行動だった。
 やはり僕は、この男が理解出来ない。
 ただ分かる事と云えば、絶対僕をからかって、そして愉しんでいるんだと云う事だけだ。
 後部座席に座り込んだまま動けない僕を見て、御島は喉の奥で笑い、ニヤつきながら僕を見下ろしている。

「どうした、鈴。早く降りて来い…でないと、連れて帰るぞ」
 揶揄としか思えない言葉に腹が立ち、少し乱れた制服を整え始める。
 御島の家に居た間、彼が用意してくれた服を着ていたけれど、やはり自分の服が一番、制服だけれどしっくり来る。
 乱れを直し終えるとシートに手をつき、何とか立ち上がろうとする。
 けれど、全然力が入らない。
 僕はチラリと、運転席に居る人物に目を遣り、続いて外に居る御島を見た。
 普通の人が易々と運転手付きの車になんか乗れないって事ぐらいは、世間知らずな僕でも知っている。
 家の広さと云い運転手と云い、父の元に仕えれば高い給料が出るのだろうか。
 父の傍に居たから、恐らく父に仕えているのだろうけれど、一体どんな仕事をしているんだろう。

 そんな事を考えながら中々車から降りられずにいた僕を、御島は暫く眺めていたけれど
 やがて痺れを切らしたのか、顔を覗かせて手を伸ばし、僕の腕を掴むとまるで引き摺りだすように外へと出してくれた。
「だからてめぇは、何度云ったら分かる。素直に甘えろ、」
 おまえじゃなく、てめぇと呼ばれた上、忌々しそうに舌打ちまでされ
 怒らせてしまったのかと少しばかり焦ったけれど、僕は相手に甘えるなんて事は絶対にしない。
 何かをして欲しいとか、ねだったり甘えたりなんて事は、絶対にしないのだ。

 車から降ろされた僕を、御島は当然のように肩に担いで、運転手には何も告げずに進み出した。
 慌てながら降ろして下さいと叫ぶように告げるが、御島は何も云わない。
 やはり怒っているのかと思うと、何故だかとても申し訳ない気になる。

 ………他人なのに、どうでも良い人なのに。
 どうして御島にだけは、いつもの僕で居られないんだろう。
 僕にとってはどうでも良い事だから、母以外の人の顔色を伺う事なんて今まで無かったのに。
 普段と違う自分に悩んでいると、御島は門口の前の石段を上がり、慣れたように門をくぐって庭を通る。
 兼原のお陰で手入れが行き届いている庭を、御島は何処か気に食わなさそうに眺めていた。
 僕はそんな御島から庭へと視線を移し、姫沙羅の葉が色づき始めているのを目にして、紅葉するのも直ぐだろうと考えた。
 夏に白い花を咲かせる姫紗羅は、秋が深まるにつれて紅葉の色も徐々に変化して
 とても綺麗だけれど、葉が落ちた後の方が美しい幹肌をじっくりと眺められるから、好きだ。
 姫紗羅から目を逸らし、何も喋らない御島を一瞬だけ見遣るけれど、僕もまた何も喋らない。
 これで良い……あまり多く会話をしない方が、印象に残らずに済むのだから。

 広い庭を通り抜けてようやく玄関の前へ辿り着き、御島は鍵を出せと口にした。
 まさか僕の部屋まで送ってくれるのかと焦った僕は、何度か首を横に振ったが
 御島の黒々しく獰猛な雰囲気が強まったのを感じて、焦りながら降ろして下さいと告げた。
 すると御島はようやく担ぐのを止め、地面に足が付いた僕は、直ぐにポケットから家の鍵を取り出す。
 足元は少しフラついたけれど、立てない程では無い。
 その事に安堵し、鍵を開けて扉を引き軽く息を吐いた途端、
 唐突に御島に抱き寄せられ、驚く間も無く彼は僕を抱いたまま家の中へ入って扉を閉めた。

「な、な…、何ですか…、」
 軽く肩を押されて壁に押し付けられ、唐突過ぎる出来事に、思考が上手くついてゆかない。
 そう尋ねることしか出来ず、そんな僕を御島は何だか真面目な表情で見据えて来る。
「…良く来るのか、」
「え?」
 御島の真面目な表情から目を逸らせず、じっと見ていた所為で、言葉の意味が上手く理解出来ない。
「おまえがぶつかった後、おまえの肩を掴んだ奴だ」
 思わず訊き返そうと口を開きかけるが、それより先に御島が言葉を放った。
 そんな人は居ただろうかと記憶を探ると、不意に兼原の存在が頭に浮かぶ。
「兼原さんの事ですか?」
「名前はどうだって良い、」
 思い出したのに、素っ気無い言葉を返されて僕はいささか、むっとする。
 あの時見た筈の兼原の顔は、数日前の事なのに思い出せないし、彼が何を云ったかすら記憶に無く、どうだって良い。
「母が居ない時は、来ませんけど…」
 記憶を探りながら、僕は小さな声で答えたけれど、実際は分からない。
 僕は離れから全くと云って良いほど出ないし、家の中に兼原が居たとしても、僕はそちらを見向きもしないだろう。

「そうか。まあいい、鈴…あいつには近付くな」
 御島に云われなくとも、自分から兼原に近付くような真似はしないし、他人と関わる事を避けている僕は
 母の恋人の兼原ですら関わり合いになりたくないと思っている。
 ……だけど。
 どうしてそんな事を御島が云うのかが理解出来ず、僕は少しだけ俯き、怪訝そうに眉を寄せた。
 すると急に顎を掬い上げられて、あの力強い双眸と目が合う。

 鋭くて、冷たくて、ギラついていて恐いから、この目は好きじゃない。
 縛り付けるように僕を見つめて、放してくれない双眸は……
 まるで吸い込まれそうな瞳だから、恐くて仕方が無い。
 双眸から視線を逸らせずにいると、御島の顔がゆっくりと近付いて来て、焦った僕は慌てて彼の胸に両手を付いた。
「ま、待ってください、母が…」
「安心しろ。あの女は稽古だろう、」
「どうして…んっ」
 どうして知っているのかと尋ねようとしたのに、唇に触れた冷たく柔らかい感触に、一瞬頭の中が真っ白になる。
 それが口付けだと気付いた時には、相手は既に、舌を侵入させていた。
 思わず逃げようと動いた舌はいとも簡単に絡め取られ、彼は目を細めてクッと笑うと、堪能するように口腔を探る。
「ん…ぅ、ん…っ」
 執拗にきつく吸われ、あやすように背中を撫でられるから、逃げようなんて気は結局薄れてしまう。
 息が弾み、徐々に体温が上がり始めた頃、御島はようやく解放してくれる。
 少し放心しながら相手を見上げれば、御島はとても満足そうに、口の片端を上げる。
「たまらねぇな、鈴。今直ぐにでも、滅茶苦茶にしてやりたくなる」
 舌打ちを零しながら、苛立ったように云われるけれど、僕はまだ放心している所為で上手く言葉が呑み込めない。
 僕のブレザーの襟に付いている学年組章を、指で緩やかになぞった御島は、苦々しそうな表情を浮かべて軽い溜め息を漏らした。
 どうしてそんな表情をするのか分からず、僕はただ、不思議そうに相手を見上げる。

「今は三年か。おまえが高校を卒業するまでは耐えるつもりだが……長いな、」
 三年とは…御島は一体、何を云っているんだろう。
 僕は御島が指でなぞっている物を視線で追って、そこでようやく理解した。
 御島は、僕がまだ高校生だと思っているのだ。
 完璧そうで、何もかも知っていそうな彼が、意外な所で抜けているのを目の当たりにして、笑えるよりも安堵した。
 僕の歳をろくに覚えていない父の元に居たのなら、正確な年齢を知らないのも無理は無い。
 人違いの可能性が高いけれど、御島が昔僕と会っていたとしても、
 僕は幼い頃から他人に自分の年齢を口にしなかったのも有る。
 それと云うのも近所の人や母の知り合いに訊かれても、常に傍にいた母が、曖昧に答えていたからだ。
 母は若い内に僕を産んだから、それを他人から変に思われない為に、わざと僕の本当の歳を口にしなかった。
 世間体を兎に角気にする女性だったから、仕方が無いのだろう。
 でも僕はもう十九歳で、高校なんて卒業している。
 それなのに、高校生としてこの男に扱われていると云う事は、何だか居た堪れなかった。

「あ、あの…御島さ…」
 訂正しようと口を開くが、言葉の途中で携帯の着信音が、御島の懐から響く。
 煩い音が大嫌いな僕は迷惑そうな表情をし、つい御島を嫌そうに見てしまうけれど、
 彼は僕の視線なんて気にしていないかのように携帯を取り出した。
「悪いな、鈴。急用だ…」
 携帯の画面を確認した御島は、僕の前髪を掻き上げるようにして頭を撫で、残念そうに囁く。
 彼の顔が近付いて来て、反射的に逃げようとするけれど、御島は構わずに僕の額に口付け、直ぐに背を向けて扉を開け
 携帯の通話ボタンを押して耳に当てながら出て行き、あっさりと扉を閉めた。
 物音も立てず、静かに閉めた御島の仕種に驚き、僕は無意識の内に
 先程キスをされた額に手を当て、閉ざされた扉を呆然と眺めていた。
 まだ外に居るのか、微かに向こう側から御島の声がして……無意識に扉に耳を付け、盗み聞きのような事をしてしまった。
 直ぐに自分の異常な行動に驚き、恥じて、慌てて耳を離そうとした。
 けれど。

「狩野さん、お久し振りです。聞きましたよ、出所なさったそうですね」
 御島の丁寧な言葉を耳にして、身体がひどく震えた。
 今さっき僕と話していた人と同じ人物かと疑うほどに、冷たく鋭い口調だった。
 僕は今まで、御島の事を恐いと思っていたけれど、外で喋っている声を聞いてしまったら
 穏やかな方だったのだと思わずにはいられない。
 御島は僕に話しかける時、丁寧では無いけれど穏やかな喋り方をするし
 度々感じていた背筋が凍るような威圧感も、震える程の黒々しい雰囲気も、柔らかくなるのに……
 今は近くに居るだけで、肌をじりじりと焼かれるような、そんな近寄りがたい存在になっている。

「そこまで云って頂けると此方としても、てっぺんをとった甲斐が有ります。はい、近々伺いますんで…」
 声は次第に遠くなって、僕は零れそうな悲鳴を抑えようと両手で口元を覆っていた。
 息が詰まって、上手く呼吸が出来無い。
 身体はどうしようも無い程にがくがくと震えて、歯も上手く噛み合わずに震え、まるで腰が抜けたように僕はその場にへたり込んだ。
 冷や汗が肌を伝うのを感じながら、自分の身体に両腕を回して、俯く。
 あんな声を傍で出されたら、僕はきっと、あまりの恐怖で気絶してしまうかもしれない。
 それ程に、御島は何か、どす黒いものを抱えている気がする。

 御島が云っていた言葉が何度も頭を巡って、てっぺんをとったとかは良く分からないけれど……出所の意味は、分かる。
 けれど恐怖で上手く頭が働かず、何度か深呼吸をしながら、僕は御島のことばかり考えている事に今更気付いた。
 言葉を交わす時は母の目さえ見れないのに、御島が相手だと見る事も出来た。
 いつの間にか御島が記憶に鮮明に残っている事に戸惑い、
 これでは御島の事を忘れられなくなってしまうと、焦燥感に駆られる。

 もう御島とは二度と、会う事は無いんだ。
 だから早く忘れて、またいつものように一人で日々を過ごして―――――。
 そう考えた瞬間、何故か一瞬だけ、締め付けるような痛みを胸に感じた。




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