黒鐡......08
落ち着ける場所に戻り、いつもと同じように離れで時間を過ごし、
御島と別れてから二日経った朝、見たくない夢を見た所為で僕の気分は最悪だった。
母が兼原と話しているだけの、特に変わりの無い夢だけれど、母はとても幸せそうで僕は叫ぶように彼女を呼ぶ。
だけど彼女は僕に気付くことすらせず、ただ幸せそうに笑うだけで………
あんなに幸せそうな顔は、僕の前では一度だって浮かべなかったし、笑顔すら僕に対して向けてはくれなかった。
―――――それでも僕は、母が幸せならそれで良かった。
母は兼原と居れば、幸せなのだ。
僕など必要としていないのだと考えて、僕は遣る瀬無い気持ちのまま夢から覚め、
一人っきりの目覚めにいつだって、少し物悲しい気持ちになる。
目覚めてから暫くの間ぼんやりと過ごし、やがて身なりを整えるとろくに食事もせず
気を紛らわすように本を読み耽るが、夢の内容が鮮明に頭の中に残り、胸の辺りがむかむかする。
学校を卒業して家で大人しくし始めた頃から、母はあまり家に戻らず、僕はもう何年も母の手料理を食べていない。
淋しくないと云えばそれは嘘になるけれど、僕は誰にも、母にさえ淋しいと云う言葉を漏らした事は無い。
淋しいと口にした所で、どうにもならないって事を、僕は重々承知している。
むしろ、口にすると余計に虚しさが強まるだけなんだと、僕はもう、随分幼い頃に学習した。
読み耽っていた本を閉じ、母も帰って来ないのだから気分転換に図書館にでも向かおうかと考え、立ち上がる。
上着と返却する本を手にすると、僕は襖を開けて廊下へと出た。
あの夢を見た日に、家に籠もっていれば余計に気分は沈むし、夕方までに家に戻れば母に見つかることも怒られることも無いだろう。
歩き進んで母屋の玄関に向かい、靴を履こうと身を屈めた瞬間、唐突に目の前の扉が開かれた。
「鍵が掛かっていないのか…無用心だな、」
てっきり鍵が掛かっているとばかり思っていたのに、いとも簡単に開いた扉に、僕はひどく驚いた。
この時間、母は稽古に向かっている筈で……と云う事は、普段僕が家に居る時も母は鍵を掛けずに出かけていたのだろうか。
そう思うと、良く今まで強盗などが入らなかったなと考えてしまう。
入っていたとしても、僕はあの離れからあまり出ようとしないのだから、気付かないかも知れないけれど。
鍵が掛かっていなかったことにも驚いたが、何よりも男の姿にぎょっとし、
当然のように中まで入って来たことに瞠目してしまう。
勝手に家に上がり込んで来るなんて、どんな神経をしているんだろう。
責めるように暫くじっと御島を見上げていると、彼は愉しそうに目を細めて喉奥で低く笑い、僕の方へと手を伸ばして来た。
「気分はどうだ、鈴。何処も悪くねぇか、」
頬に大きな手を添えられ驚いて身を引こうとするけれど、それよりも御島の問いが早かった為、僕は逃げるタイミングを見失った。
その上、御島の穏やかで優しい口調に、つい拍子抜けしてしまう。
以前、彼が電話で喋っていた口調と比べると、あまりにも別人のように思えたからだ。
だから、あまりにも拍子抜けした所為で僕は、御島が勝手に家に入り込んで来た事を責める気が無くなってしまった。
「は、はい…変わりは有りません」
小さな声で答えると、御島は僕の足元に一度目を遣り、何処か行くのかと尋ねて来た。
その問いに僕は首を縦にも横にも振れず、気まずい沈黙を保つ。
結果的に通話をしていた御島の言葉を盗み聞きしてしまったし、もう絶対に会わないと思っていた相手の
唐突な訪問も合わさって、僕は直ぐにでもこの場から逃げたい一心だった。
「行きたい所が有るなら、連れて行ってやる。遠慮するな、」
御島はそう云うと腕を掴んで来て、僕は全身に言いようのない緊張が走るのを感じた。
あの声を聞いてしまってから、御島がとてつも無く恐く思えて、仕方がない。
「鈴、……どうした、」
訝るように御島は眉を寄せて、自然と俯いてしまった僕は力無くかぶりを振った。
すると御島は舌打ちを零し、本当に唐突に、僕の身体を抱き上げて来た。
「み、御島さん、な…何を…」
「おまえの部屋は何処だ、」
「え…、」
相手の言動に戸惑い、どうして僕の部屋にこの男を案内しなければいけないのかと考えるが
僕を抱えたまま御島は返答を待つかのように、此方を見据えて来る。
案内しなければ降ろして貰えなさそうで、もう一度念を押すように何処だと尋ねられた僕は
その迫力に押されてしまい、結局渋々と部屋に案内する羽目になった。
降ろしてくれと何度か口にしたが、彼は何も答えてはくれない。
僕が案内するままに進んで渡り廊下を通り、僕の部屋が離れにあると知ると、不機嫌そうに少しばかり眉を顰めた。
一体何がそんなに気に食わないのか理解出来ず、僕は彼を怪訝に思ったけれど、相手は何も云わない。
部屋に辿り着くと、御島はとても物珍しそうに室内を見回し、ようやく僕を畳の上へそっと下ろしてくれた。
御島は僕を、丁寧に優しく扱ってくれる。
母親にすらそんな扱いを受けた事の無い僕は、内から込み上げて来るような、何だか良く分からない温かい感覚に何度も戸惑った。
「随分、殺風景だな」
彼の云う通りこの部屋には、隅に本棚と鏡付きの箪笥が有る程度で殺風景だ。
肯定するように頷き、いつ帰ってくれるのかと言いたげに相手を見上げると、
御島は僕の目の前で腰を降ろして胡坐を掻き、口元に少し冷たい笑みを浮かべて見せた。
その笑みは、とても好きにはなれない。
僕の全てを見透かして、蔑んでいるように思えるから。
居た堪れなくなって、早く帰って欲しいと願いながらも、そんな失礼な事は口には出来無いしで僕はただ黙り込むしか出来なかった。
「どうした鈴、何をそんなに緊張してやがる、」
――――――緊張?
掛けられた言葉に軽く首を傾げ、僕は緊張しているのだろうかと、疑問に思う。
だけどその答えは直ぐに出て、御島の云う通りだった。
この部屋では僕はいつだって一人で、母がこの部屋に入って来たとしても、ものの数分も経たない内に出て行ってしまうから……
殺風景で、普段は一人ぼっちな空間に他人が居ると云う慣れない事実に、僕はひどく緊張していた。
「み、御島さんは…どうしてそんなに…色々と、分かるんですか、」
何かを尋ねたり、言葉を多く交わすことはしないと、決めていた筈だ。
印象に残るような、そんな関係にはなりたくない。
あっさりと別れて、そして……もう二度と会わないような、そんな関係で居たかったのに。
だのに御島が何故僕の事を分かってしまうのかが、どうしても知りたかった。
幼い頃から僕は、何を考えているのか分からない子だと散々云われ、
感情だって有るのか無いのか分からない奴だと、良く云われた。
表情が変わらなくて人形みたいで気味が悪い…と親戚や周りからも云われて、色んな人達に嫌われて来た人間だ。
僕はどんなに辛くても顔には出さないし、淋しいと思っても決して口にはしなかった。
それなのに、どうして御島は分かるんだろう。
弱い部分を絶対に他人には見せまいとしていたのに、御島はあっさりと見破って来る。
……どうしてなんだろう。
「さあな。鈴が分かり易いんじゃねぇのか、」
あまりにも淡白な答えに、僕は込み上げて来る嫌な感情を抑えようと、シャツの胸元を握り締めた。
分かり易いだなんて……そんな筈は、無い。
だって僕はいつだって、母に恥を掻かせまいと、努力して来た。
それなのに御島は、僕が必死で隠していた弱い部分を、あっさりと見破るんだ。
何故だかそれが酷く悲しくて遣る瀬無くて、まるで僕の何もかもを分かっているような、そんな態度を取る相手が
何だか無性に、ひどく、腹立たしくて……。
「僕は、僕は…分かり易くなんか、だって僕はいつだって…っ」
いつだって、感情を抑えて来たじゃないか。
他人に甘えようとする自分を、叱咤して来たじゃないか。
そこまで考えると、湧き上がった激情が嘘みたいに引いて、僕は自分の醜態に嫌悪感を抱いた。
――――違う。御島が腹立たしいんじゃなくて
隠していた弱い部分を知られる事に、激しい焦燥感を抱いただけだ。
それは、御島の所為でも何でも無いのに。
僕は……僕は本当に、何をしているんだろう。
まだ良く知らない人の前で、これからもう、会う事も無いであろう男の前で、
見っとも無く癇癪を起こして本当に……馬鹿みたいだ。
嫌悪感に苛まれている僕のせめてもの救いは、言葉を続かせずに黙り込んだ僕を、御島が責めたりしなかった事だ。
もし御島が、おまえは醜悪だとか、蔑むような言葉を掛けて来たら、僕はどうなっていただろう。
「鈴、云いたい事は吐けばいい。その方が、ずっと楽になる」
御島は穏やかな口調でそう囁くと、僕を抱き寄せ、あやすように背中を撫でてくれた。
僕は…こんな優しさは、知らない。
こんな言葉も、掛けてもらった事なんて無い。欲しい、と考えた事も無い。
御島は、他人だ。
関わり合いになりたくも無い、そしてもう会う事の無い他人で………
それなのに、僕はもう少しだけ、この温かさも優しさも感じていたいと思ってしまった。
結局、何を云いたかったのか分からなくなってしまった僕は、彼が口にした云いたい事というものを吐けないままでいた。
けれど御島はそんな僕から無理に聞き出そうとも責める事もせず、あやすような優しいキスをくれるだけだった。
「おまえ、普段…何をして過ごしているんだ、」
大分落ち付いたのを見計らって、彼は手を伸ばすと唐突に僕を抱き寄せて
その膝の上に乗せ、話題を変えるようにそう尋ねて来た。
他人の膝上になんか乗った事が無い僕は慌てて逃げようとするけれど、
御島が片腕を僕の腰に絡ませている所為で、逃げようにも逃れられない。
「ほ、本を読んだり…してます、けど…」
「外には出ないのか。ガキの癖に、珍しいな……だからそんなに白いのか、」
出掛けないのは人込みが先ず駄目だし、それに日差しにだってめっぽう弱いのも有る。
けれどそれを御島に云おうとは思わなくて、僕は自分の弱い所を
これ以上悟られまいと、必死に虚勢を張って、強がっていた。
「そう云えば、昼は食ったのか」
静かな口調で問われ、昼どころか朝食さえもとっていない僕は、ゆっくりとかぶりを振った。
すると御島は眉を寄せて、朝食もかと尋ねて来るものだから、鋭い質問にいささか戸惑いながらも僕は素直に頷いた。
「そうか、なら今から飯でも食いに行くか。和食はどうだ、」
「け、結構です」
御島の提案に驚いて慌てて断わるけれど、断った事で相手に
不快な想いをさせなかったかと、僕は何故か気になってしまった。
だが御島は気を悪くしては居ないようで、雰囲気も穏やかなままだったけれど、表情は少しばかり真剣さを漂わせている。
「鈴、おまえは痩せ過ぎだ。もっとちゃんと食わないと、直ぐにぶっ倒れるぞ」
「お、お構い無く…僕は別に、平気ですから…」
僕の身体を気遣ってくれているんだと思うと、何だか嬉しいと云うよりも
ひどく申し訳ない気がしてしまい、少し控え目な口調で返す。
御島は苛立ったように舌打ちし、顔を近付けて来た所為でキスをされるのかと考えた僕は、咄嗟に目を瞑ってしまう。
だけど額に何かがぶつかって、そろそろと目蓋を開ければ、御島が額を僕の額へと押し付けていた。
「阿呆、おまえが良くてもな、俺は平気じゃねぇんだよ」
きっぱりと云われて、僕は驚きに目を見開きながら、間近の御島をまじまじと見つめる。
御島はどうして、そんな事を云うんだろう。
思わず、どうしてかと訊きそうになったけれど、僕はその問いを何とか押し殺した。
それを訊くのが、御島を更に忘れられなくなってしまいそうで、僕は何だかとても、恐かった。
結局、僕が頑なに拒んだ為、御島は無理に僕を店へ連れて行く事はしなかった。
母の夢を見た日は食欲が無い上に、食べても戻してしまう事が有る。
御島にはこれ以上醜態は曝したく無いし、弱い部分を知られたく無い。
その気持ちは、他人に対して弱みを握られたく無いと思う気持ちとは、何処となく違っているように思えた。
御島には、嫌われたく無い……そんな気持ちだ。
一体この気持ちは何なのかと訝っていても、答えなんていつまで考えても出なくて。
帰ってゆく御島の背を眺めながら、また明日も来るのだろうかと考えて
何故か分からないけれど僕は胸の奥が少し熱くなるのを感じながら、その背を、見送った。
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