黒鐡......09
御島と、父の家で初めて言葉を交わした日から、もう二週間は経とうとしている。
御島は毎日のように家に上がり込み、口付けだって何度もして来て、けれど僕はどうしてかそれを拒否する事が出来なかった。
あっさりとした別れを僕は望んでいた筈で、誰かを心の中に残すこともしたくは無い。
それなのに、御島の声も表情も体躯の良さだって何もかも鮮明に思い出せるぐらいに、
いつの間にか彼は僕の中に残ってしまっていた。
ほぼ毎日のように傍に居たから、こんなにも鮮明に思い出せるのかも知れないけれど、自分の異常さに戸惑ってしまう。
人と関わり合いにはなりたく無いし、御島に家に入られるのが嫌なら単にドアに鍵を掛ければいい事なのに、僕はそれすらしない。
最近は御島の事を少しだけ知りたいとまで思うようになったし、普段から表情を崩そうとしないのに、御島の前では自然と崩れる。
いつもの僕からは想像も出来無いぐらい感情の揺れは激しく、
御島を前にすると簡単に感情を曝け出してしまいそうな自分が、嫌で仕方が無い。
僕はいつか、御島に甘えてしまうのでは無いかとすら思う。
誰かに甘えるなんて絶対にしたくは無いけれど、御島の優しさを前にしたら
無意識の内にそれをしてしまいそうで―――それが、ひどく恐い。
部屋の隅に座り込んで壁に寄りかかり、開いた本の文字を目で追いながら、溜め息を零す。
他人の事でこんなに悩んだのは初めてだし、気付けば、僕は御島の事をしょっちゅう考えている。
他人に興味なんて示さないし関わろうとも思わなかった僕が、一体、どうしたんだろう。
昨夜は御島の事を、つい余計に考えてしまった所為で良く眠れなかったし、
今だって頭の中では御島の事をあれこれ考えてしまい、読んでいた本の内容は全く頭に入って来ない。
良く眠れないのは普段の事だけれど、誰かの事を考えていた所為で眠れなかったのは初めてだ。
………僕は御島に関して、初めてな事が多すぎる気がしてならない。
そう云えば、恐怖する対象と云うものは何よりも強く心に残るんじゃないかと
僕は何故かふとそんな事を思い付き、御島もそうでは無いかと思う。
御島は僕に対してはとても優しいし、あの黒々しい雰囲気も薄れているけれど、やっぱり恐い事には変わらない。
彼が僕の中に強く残っているのは、御島が恐怖の対象だからでは無いのかと考えた途端、次第に近付いて来る足音に気付く。
存在を強調するかのような、荒々しい足音が廊下側から響いて、その音に集中している自分に気付いた僕は慌ててかぶりを振った。
これではまるで、御島が来るのを待ち望んでいるみたいだ。
自分に苛立ち、落ち着こうと小さな溜め息を零した瞬間、部屋の前で足音は止まって、襖が音も立てずに開かれる。
音も無く襖や扉を開閉出来る御島の仕種はとても丁寧で、好きだ。
「お、おはようございます、御島さん…」
本から顔を上げた僕は、自分から挨拶を口にする。
すると御島はうっすらと口を緩めて、気を良くしたように挨拶を返してくれた。
母にも返されることの無かった言葉の響きに、少し喜びを感じている僕に
襖を物音も立てずに閉めた御島は近付き、隣へと腰を降ろして来る。
その途端、いつものように彼の膝上へと乗せられるけれど、触れられることへの嫌悪感は今となっては無い。
でも膝上へ乗せられると云う行為自体は恥ずかしくまだ抵抗は有るが、
この男が逃がしてくれる筈も無く僕は結局、大人しく座っている事しか出来無い。
「……寝ていないのか?少し顔色が悪い、」
顔を覗き込まれて言葉を掛けられ、咄嗟に自分の顔に手をやるけれど、そんな事をしても顔色が悪いか良いかなんて分かりっこ無い。
子供みたいな真似をしてしまった僕に向けて、相手は可笑しそうに笑い出したものだから
僕は急に恥ずかしくなり、慌てて自分の顔から手を離した。
…………どうしよう。
御島の前ではいつもの平静な僕を、どんどん遠ざけている気がする。
顔が熱くなるのを感じ、赤面してしまっているのでは無いかと
不安になった僕の手元から、御島は急に本を取り上げた。
「読んだ事のねぇものだな。面白いのか、」
「は、はい。報われない男の話ですけど」
「……シビアだな」
少し苦笑した御島は本を開き、静かに頁をめくってゆく。
頁をめくる手付きがあまりにも丁寧で、僕はつい少しばかり見とれてしまった。
「御島さん…読むの速いですね、」
「ああ、速読は得意な方でな。…これは連作か、」
速く読める上、読みながら会話も出来るのかと関心してしまう。
この男でも本を読むのかと、失礼ながらもそんな考えが頭に浮かび、その考えを振り払うように
瞬きを数回繰り返した僕は相手の言葉に軽く頷く。
好きなところは何処だと訊かれ、御島が今読んでいる箇所を確認した上で、先を云わないよう気を配りながら、僕は答えた。
「僕は、主人公の幼少時代の話が好きです」
「冬が死んでしまうと泣いた時の話か、」
「は、はい、でもそれは死じゃなくて……」
共通の話題に僕は少し気を良くして言い掛けるが、直ぐに言葉を止めた。
幼少時代は丁度御島が読んでいる章だが、僕が好きな部分は、もう少し先の一場面だった筈だ。
一度軽く首を傾げてから相手を見据えると、御島はやけに涼しい顔をしながら頁をめくっている。
その様子に、ようやく御島が内容を知っているのだと気付いた僕は、軽く眉を寄せた。
「内容、知っているんじゃないですか」
咎めるように云うと、御島はクッと低い声色で笑って本を閉じ、目線を上げて僕と目を合わせて来る。
「ああ。だが、四作目からは読んだ事が無い。持っているなら貸してくれ」
「読むんですか、」
「おまえが気に入っているものなら、目を通すさ。…おっと、忘れる所だったな。鈴、土産だ」
臆面無くさらりと云われた言葉が何だかくすぐったくて、御島の言葉が何だかとても嬉しい。
言葉を続かせた御島は僕の顎を掬い上げて、その行動の意味が分かる僕は、相手が顔を近付けて来ると咄嗟に目を瞑った。
けれど唇に触れたのは、いつもの冷たく柔らかいものじゃなくて……。
「鈴、口を開けろ」
鼻につく甘い匂いを不思議に思い、うっすらと目を開けながら
言われる通りにすると、御島は小さな固形物を口腔へと入れて来た。
食べ物かと訝って眉を寄せながらそれに舌を付けると、徐々にそれは溶け始めて、口内にじんわりと甘みが広がってゆく。
「どうだ、甘いだろう」
目を細めた御島に尋ねられ、僕は驚きで何も答えられず、頷くことしか出来なかった。
チョコレートなんて食べたのは久し振りで、幼少の頃に母が何度かそれをくれた記憶が有る。
お菓子や玩具など、母は買ってはくれなかったし、それ以上に僕は欲しい物をねだったりした事なんて無かった。
「あ、あの…お金は、」
まだ口内に残る甘さに浸っていたが、直ぐにハッとして、慌てたように問う。
だけど御島は、そんなものはいいと軽く返し、片手に持っていたチョコレートの箱を僕の前に差し出した。
「鈴…もっと欲しいか、」
もう片手で僕の前髪を掻き上げるように頭を撫で、御島は額に唇を寄せながら尋ねて来る。
くすぐったさに少し身を捩ったが、僕は何も答えなかった。
僕は、欲しい物を人にねだった事なんて無いし、人に甘えた事だって無い。
願いや望みを、口にした事なんて一度も無い。
何も云わずにじっと相手を見つめていると、御島は眉を寄せて舌打ちを零す。
しまった、と一瞬だけ考えた僕は、相手に不快な思いをさせたのだろうかと焦った。
他人なんかどうでも良いと思って来た僕が、御島を相手にすると彼の心情を気にしてしまう。
……何だか、変な話だ。
「鈴、おまえは何時になったら甘えて来るんだか…、」
御島はそう言って僕の首筋に顔を押し付け、まるで匂いを嗅ぐように、スンと鼻を鳴らした。
驚きで一瞬身体が跳ねるけれど、僕は少し身を捩るだけで、暴れたりはしない。
御島に触れられたり、近付かれたりする事には、もう大分慣れた。
会う度、何度もキスをされたり、傍に寄られたりすれば、当たり前なのだろうけれど……
他人を嫌っている僕にとって、慣れると云う事は信じられない事だった。
慣れても相変わらず、身体は少しだけ震えてしまうけれど。
「……鈴、もう大分慣れたようだな」
首筋に掛かる御島の吐息がくすぐったくて、僕は軽く身を捩った。
大分慣れたとは、どう云う意味だろう。キスとか、抱き締めたりする事に慣れたと、御島は云いたいのだろうか。
思案していると、御島は僕の首からゆっくりと顔を離した。
間近に迫ったその顔には、苦笑が浮かんでいる。
「これでおまえが高校を卒業でもしてりゃ、最高なんだがな、」
その言葉にハッとし、そう云えば御島は確か、僕をまだ高校生だと、勘違いしたままだった事を思い出す。
これできちんと訂正して置けば、少しは子供扱いをしなくなるかも知れないし、
何より、思い込ませたままだと何だか嘘を吐いているようで嫌になる。
「最近行って居ないようだが、学校は面白いか」
勘違いを指摘しようとするが、それよりも早く御島の問いが掛かり、言葉に詰まる。
一度深呼吸をしてから、御島の目をじっと見つめた。
視線が絡み合う事に少し恥ずかしさを感じるけれど、何とか耐えながら口を開く。
「あ、あの…僕は、高校生じゃありません、」
少し震えた口調で告げると、御島の片眉がピクリと上がった。
一瞬、怒り出すのかと思ったけれど、御島は優しい手付きで僕の頭を撫で始めた。
「そうか。…で、いくつだ、」
「じゅ、十九です。学校も行ってないし、就職も…して、いません…」
言い難そうに視線を逸らし、ぽつりと呟く僕を、御島はじっと見つめているようだった。
痛い程の視線を感じて、責められているような気分になる。
学校にも行かず、ましてや就職さえもしていないなんて、駄目な人間だと思われて当然なのかも知れない。
御島にだけは、そう思われたり、軽蔑されたくは無かったのに……。
「十九か。……参った、」
僕が何もしていない事には細かく触れず、片手で目元を覆いながら、御島はそう呟いた。
少し深い溜め息まで零して、やはり僕に呆れたのだろうか。
「……随分待った。俺にしちゃ、かなり我慢した方だと思うんだがな、」
続く御島の言葉の意味が良く分からず怪訝に彼を見上げると、相手は口元に冷たい笑みを浮かべて、目を細く眇めた。
背筋がぞっとするようなあまりにも冷たい表情に身体は震え、
恐怖で動けずにいると、御島はそんな僕をゆっくりと優しく畳の上へ押し倒す。
上から僕を見下ろして、軽く舌なめずりする姿は………
まるで今直ぐにでも獲物を食い千切ろうとしている、獰猛な肉食獣のようだ。
御島のギラつく瞳から目が逸らせず、彼の纏っている黒々しい雰囲気と威圧感に、身体を震わせて怯えてしまう。
「鈴…そんなに怯えるんじゃねぇよ、」
けれど御島の声はあまりにも優しく、単純な事に少しばかり安堵した僕に、
彼はゆっくりと顔を近付けていつもするように、唇を重ねて来た。
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