黒鐡......11
母達が出掛けてから数時間後、昼を口にする為に母屋の台所へ赴いたものの、ちゃんとした物を作る気にもなれなかった。
今朝から何も口にしていないし、別にそれは普段の事だから別に構わないけれど……
御島がいつも、朝食は食べたのかと訊いて来るし、食べていないと答えれば
不機嫌そうに眉を顰めるものだから、何か食べなければと思ってしまう。
仕方なく簡単な野菜の和え物を作ったものの、箸は遊ぶように野菜をつつくだけだった。
自分の座る席の正面に、誰も居ない空間が広がっているのは今に始まった事ではないが……
何故か今は物悲しく思えて、僕は箸を机の上に置き、目を伏せる。
―――――大丈夫、いつものことだ。
そう自分に言い聞かせ、湧き上がりそうな負の感情を抑え込んだ。その途端、軽く咳が漏れる。
また風邪かと眉根を寄せ、手をつけなかった和え物を持ち、冷蔵庫に向けて足を進めた。
片手で口元を覆い、数度咳を漏らしていると、廊下から足音が響く。
まさか母が帰って来たのかと一瞬焦るが、足音は荒々しい。
その足音で、それが誰なのか分かってしまった僕は、母が家の鍵を掛けて行かなかったことに眉を寄せた。
鍵は閉まっているか、ちゃんと確認しておかなかった僕も悪いけれど
自分が家に居る事が分かってしまえば、母が云った、大人しくしていなさいと云う言葉をきちんと守らなかった事になってしまう。
どうしようと焦るけれど、この部屋には隠れる場所なんて何処にも無いし、部屋の出入り口の扉は開け放されたままだった。
「よお鈴…あの部屋以外の場所に居るなんて、珍しいな」
部屋の前を通りかけた御島は、僕に気付くと足を止めて、室内へ入り込んで来る。
不法侵入しておいて何の謝罪も口にせず、御島は相変わらずニヤニヤと笑っていた。
御島に挨拶の言葉を掛けつつ、手にした和え物を冷蔵庫へ直ぐにしまうと、扉を閉め終わらない内に僕は再度咳込んでしまう。
拙い、と思う間も無く、御島は笑みを消して眉根を寄せ、荒々しい足音を立てながら近付いて来た。
「鈴、どうした。具合が悪いのか、」
「いいえ、平気です」
「馬鹿云え。顔色が悪い、」
不機嫌な声が聞こえた瞬間、急に身体を抱き上げられる。
驚く僕なんて構わず、開け放されたままの冷蔵庫の扉を丁寧な仕種で閉めてから、御島は僕を抱えたまま、その場を離れた。
強引に自分の部屋へと戻され、敷かれた布団の上へと寝かされて、僕は気まずそうに御島を見上げる。
手間を掛けさせてしまった事で御島に対して申し訳なさが募り、
母の言葉をきちんと守らなかった事は、頭の中から消え失せていた。
「どうした、」
僕の上に覆い被さるような形で、こちらを見下ろしている御島が、低く通る声で尋ねる。
手はゆっくりと僕の頬に当てられ、何度か目元を親指でなぞられた。
「いえ……面倒を掛けてしまって、すみません」
「何云ってる。こんな事、面倒の内には入らねぇんだよ。それに、おまえに何か有ったらと思うと、気が気じゃないしな」
御島の言葉の意味が、良く分からなかった。
それに、どうしてそこまで僕に執着出来るのか、分からない。
「ど、どうして…ですか、」
思わず震えた声で尋ねてしまう僕を、御島は獰猛な獣のように目を細めて見つめて来る。
瞳の奥はギラついていて、今にも喰らい付きそうな勢いを感じさせた。
「どうして、だと?……何で分らねぇんだか。鈍いにも程が有るだろう、」
呆れた口調で云って、頬に当てられていた御島の手がゆっくりと動いて、今度は耳朶を撫でて来る。
くすぐったさに思わず身を捩ると、御島は目を細め、口元に笑みを浮かべた。
「俺はおまえが好きなんだよ、」
低い声で囁かれて、御島の言葉を深く考える間も無く、唇を重ねられた。
御島の舌が口腔に滑り込むように侵入して、上顎を舐め上げて来る。
歯列をなぞられ、そして何度も軽く啄ばむようなキスをしてから、御島はゆっくりと舌を抜いて唇を離した。
「鈴、おまえが何時になったら甘えるようになるのか、楽しみで仕方がねぇよ」
僕は甘えることなんて嫌いなのに、どうして御島はそこに拘るんだろう。
息を少し切らして相手を見上げながら、少しだけ眉を寄せて口を開く。
「僕…僕は、甘えることなんて…嫌です」
「そうか。それはどうしてだ、」
少し控え目に言葉を放つと、御島はすかさず尋ねて来る。
表情からは笑みが消えていて、少し真剣なその怜悧な表情を見ていると、顔が少しばかり熱くなった。
「だって、甘えたりなんかしたら…迷惑が、掛かるじゃないですか」
強い眼差しから逃げるように視線を若干逸らしながら答えると、
御島は何が可笑しいのか鼻で軽く笑って、僕の頭を優しく撫でて来た。
「安心していい、俺は迷惑とは思わないしな。だから幾らでも甘えていい…だが、相手は俺だけにしろよ」
何だか無茶苦茶な事を云われているようで、僕は何も返せなくなる。
ただじっと御島を見据えていると、相手は不意に開いている窓の方へと視線を向けた。
以前御島が、締め切った室内は湿気も有るし衛生的に良くないと教えてくれたから、最近の僕は窓を少しだけ開けるようになった。
御島の視線を辿るようにして窓の方へ目を向けると、庭に植えてある錦木が見え、既にそれは紅葉している。
秋の紅葉が美しいから錦木と云うのだと、僕は以前何処かで聞いた事がある。
「今日はあの男、来たのか、」
鮮やかに紅く色づいている錦木を眺めながらも先程の御島の言葉ばかり考えていると
不意に言葉を掛けられ、僕は誰の事かと訝るように視線を戻す。
けれど御島が知っていて、家に来る男と言えば兼原の事だろうと思い直し、以前も兼原は来るのかと
訊いて来たしと、予想を確定させるように考えてから僕は頷く。
すると御島は気を悪くしたように眉を寄せるものだから、少しばかり慌ててしまった。
何故だか分からないけれど、御島の機嫌を損ねるのが、とてつもなく嫌に思える。
「あ、あの…でも、会っていません。声は聞きましたけど、僕には会わずに、母と出かけてしまいましたから」
「出掛けた?」
「は、はい…旅行へ、」
そこまで口にして、直ぐにはっとする。
相手の気を悪くさせた事に焦り、その所為で素直にきちんと事実を告げてしまった自分の異常さに、驚かされる。
普段の僕であれば、他人と会話を交わす事ですら億劫だし、
適当に短い言葉を放って、直ぐに会話を終わらせようと云うのに。
兼原は今日来たけれど会っては居ない、と……それだけ云えば、十分な筈なのに。
やっぱり僕は御島の前だと、どうしてか普段の僕を見失ってしまう。
「親が旅行…か。中々、好いシチュエーションだな。笑っちまいそうだ」
自分の変化に戸惑いを覚えている僕に、御島は良く分からない言葉を放つ。
何が好いシチュエーションなのかと訝る僕には構わず、御島は僕の首へと顔を埋めて来た。
唐突な行動に一瞬だけ肩が小さく跳ねるけれど、流石にもう、悲鳴を上げる事はしない。
「ぁ、…っ」
温かい感触が肌を伝って、背筋がぞくぞくとする。
首を舐められ、今度は軽く歯を立てられ、身体は更に震えた。
また何時ものひどい事をされるのかと考えると、どうしてか下腹部が熱くなって
けれど僕は咳が出そうなのを感じて、片手で口元を覆い、軽く咳き込んでしまう。
御島が少し離れると僕は直ぐに身体を横に向けて、何度か軽い咳を繰り返していると、ふいに背中をゆっくりと撫でられる。
不思議と、そうされると咳が少し治まる気がする上に、ひどく気持ちが好い。
「少し休んでいろ。顔色も悪いし…あまり寝ていないだろう、」
どうして分かったのかと驚く僕を見下ろして、御島は何も云わずに口元を緩めて微笑むだけだ。
何処と無く優しさが感じられるようなその笑みに、何故だか動悸が速まって、
慌てて逃げるように目を閉じると御島は喉奥で低く笑った。
愉しそうな笑い声や、僕の前髪を掻き上げるようにして撫でてくれる手が、すごく心地好い。
「み、御島さん…あの、お…おやすみ、なさい…」
「ああ…おやすみ、鈴」
母に向けて口にしても、決して返されなかった言葉を、御島は優しい声色で返してくれる。
部屋はまたいつものように静まり返るけれど
御島が傍に居てくれる空間は………少しだけ、温かく感じられた。
目を覚ましたのは夕刻過ぎで、けれど御島は帰らず、ずっと傍に居てくれたようだった。
母親が旅行に行ってしまったから、僕が寂しさを感じていると思っているのだろうか……
一向に帰る気配を見せない御島を見て、気を遣ってくれているのかも知れないと思う。
「御島さん、あの…お帰りにならないんですか?」
「鈴は俺をそんなに、追い出したいのか」
なるべく失礼のないようにと尋ねたのに、御島はそんな言葉を返すものだから、少しばかり焦ってしまう。
焦る僕を見て、御島は何だか愉しそうに笑っていて……やっと御島の発言が、冗談だと云う事に気付いた。
「鈴、おまえは本当に可愛いな、」
揶揄するような口ぶりに、それも冗談なのだろうと察する。
御島はどうしてこうも、僕を狼狽えさせるのが上手く、冷静にさせてくれないのだろう。
もしかして……好きだと云うのも、冗談なのだろうか。
「顔色は好くなったみたいだが……具合はどうだ、」
低く通る声で問われ、咳も出ないし大分いいですと答えると、御島は口角を上げて、そうかと呟いた。
その表情に一瞬どきっとし、慌てて視線を逸らすと、布団の上に座っていた僕を御島は唐突に抱き寄せて来た。
「鈴…、好きだ、」
低く少し熱の籠もった声で名を呼ばれ、また好きと云われて、僕は急激に熱が上がるのを感じる。
御島は僕の上衣の釦へと手を掛けて来て、服を脱がされてゆく事に顔が熱くなり
またいつもと同じことをされるのかと考えると、とてつも無く恥ずかしい気持ちがして……
御島をまともに見れなくて、僕は顔を背けた。
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