黒鐡......13
高熱を出した僕はその後、結局寝込んでしまった。
御島は泊り込みで看病してくれて、母でさえしてくれなかった付きっ切りで看病と云うものを、彼は当然のようにしてくれた。
仕事はいいのかと問うても、御島は自由業だからいいのだと、軽く返して来た。
父の元で働いているのでは無いかと考えて思わず尋ねたら、あれは本業じゃないのだと教えてくれた。
なら本業はどんなものなのかと気になったけれど、御島が言おうとしないから
何だか勘繰るようで嫌に思えた僕は、尋ねる事が出来なかった。
御島は看病してくれている間、自分の運転手に食材や服や必要なものを買いに行かせたり、
医師を連れて来て宅診させたりして来て……御島はとんでも無い事を平気でするなと、僕は少し呆れたりもした。
布団の中で横になっている僕の傍らで、胡坐を掻いている御島は、果物ナイフで器用に林檎を剥いている。
スーツの上着は脱いでいて、シャツは上の釦を外して肘の手前まで袖を捲り、ネクタイすら緩めていて
だらしないとも思える格好な筈なのに、御島がするとどうしてこうも魅力的なんだろう。
体躯が良いからか、それとも御島の整った、精悍で怜悧な顔の所為か。
姿勢が良いのも、理由の一つなのかも知れないけれど、御島の野性的な雰囲気は羨ましく思えるぐらいに格好がいい。
「鈴、気分はどうだ。」
盆の端に皮を乗せ、手慣れたように林檎を切って、皿の上へ並べゆく。
そのあざやかな手さばきに、思わず目を奪われていた僕は尋ねられてはっとし、まだ少し怠いですと遅れながら答えた。
けれど自分の声が思ったよりも弱々しくて驚き、御島はナイフを盆の端に置いてから
どれ…と呟いて、額に乗せられた濡れタオルを取り、代わりにあの冷たい手を当てて来た。
大きな手が触れる感触と、ひんやりとした手の冷たさが、あまりにも気持ち好い。
「……まだ熱が高いな。無理せずに、ゆっくり休んでおけ。治るまでずっと看ててやるから、安心していい」
優しい言葉を掛けられて、胸の奥がどうしてか温かくなる。
御島と関わる前の僕なら、他人に迷惑など掛けたくないし関わりたくないと思って
放って置いてくださいと告げて、病気だろうと一人で過ごす筈だ。
いつのまに僕は、こんなに変わってしまったのだろうと考えて
でも御島の手があまりにも気持ち好くて、今は難しいことなんて、考えたくない。
「御島さん、あんまり寄ると、うつってしまう…」
弱々しい声で言葉を放って、けれど言葉とは裏腹に僕は、御島にもっと傍に居て貰いたくて仕方が無かった。
熱で思考がおかしくなっているからだとは思うけれど、何か変な事を口走ってしまいそうで、少し恐く思える。
「どうだろうな。鈴の風邪なんか俺には効かないかも知れないだろう、……余計な事は心配しなくていい。ほら、ゆっくり休め、」
優しい声が耳の奥まで響いて、御島は僕の額に唇を押し当てて来た。
次第に、うつらうつらとし始めると、御島は寝ていいと静かな声で囁いてくれる。
御島が傍に居てくれると何故か僕はぐっすりと眠れて、本当に、彼の前では僕は何もかもが変わってしまうのだと思う。
それはどうしてなんだろうと考えるけれど、医師の出した薬の所為もあり、眠気はあまりにも強くて……
「大好きだぜ、鈴。俺にはいくらでも、甘えていいからな」
頭を撫でてくれる感触に、じっくりと浸るように、僕は眠りに就いた。
数日ほど経つと熱も下がり、体調も良くなって、御島はその事を喜んでくれた。
熱が下がって思考がちゃんと働くようになると、ずっと看病して貰った事を
申し訳無く思え、僕は帰ろうとする御島に何度か謝罪を繰り返した。
けれど御島は気にした様子は無く、別れ際に軽いキスをくれて、そしてまた好きだと囁いてくれた。
御島が好きだと漏らすと、どうしてか僕は何も云えなくなる。
同じ言葉を僕は返していないのに、御島は自分の事を好きかどうかとは、決して尋ねて来なかった。
………御島は変だ。
いくら御島が女性嫌いで、男しか好きになれないんだとしても
僕みたいな脆弱で頼りない、良い所なんて何も無い人間を好きだと思えるなんて、絶対に変だ。
親に迷惑を掛けて、社会に出ることすら出来もしない、男の癖に一人じゃ生きられないような、疎ましく思われる存在なのに。
御島はそんな僕の、何処が好きなんだろう。
こんな僕でも、御島が好きになってくれるような、いい所が有るのだろうか………。
御島が家を出てから数時間後に、母と兼原が旅行から戻って来て、兼原がお土産を僕にくれた。
それは僕が食べたことの無い洋風の生菓子で、気を遣ってくれたのかと思ったけれど、母がそれを選んだのだと聞かされ大層驚いた。
母が僕に何かを選んで買ってくれるなんて、そんな事は今まで無かった。
いつも母は何も言わずに、僕の部屋にお金を置いて立ち去ってゆくし、僕はそれで
自分の買いたい物や必要な物を揃えればいいだけの話だった。
だから僕は、母が僕の為に物を選んでくれたと云う事実に、不覚にも涙が出そうになって
それを何とか抑えながら、何度も母に礼を言い、兼原にも頭を下げた。
御島にその事を話そうかと思ったのに、どうしてか彼は顔を見せなくなった。
いつも毎日のように、家へ勝手に上がり込んで来たのに………。
もしや仕事を休み過ぎた所為で、忙しくなってしまったのかと考え、
原因の僕は申し訳無い気になったけれど、それから五日も経つと流石に不安になった。
――――どうして来ないんだろう、もしかすると事故にでもあったのだろうか。
嫌な考えが頭をよぎって、その考えを振り払うようにかぶりを振った僕は、今更ながら、ある事に気付いた。
僕は御島が、毎日訪れることをいつの間にか、当たり前のように感じていたのだ。
このまま来なくなっても、それは別に不思議でも何でも無い。
だって僕は、好きとは云われたけれど、御島とは恋人同士では無いのだから。
一緒にいなければいけないような、そんな大切な存在でも無い。
だから御島がもう来なくなったとしても、それは別に傷付くことじゃないし
それに僕は、人の言動に傷付いた事なんて一度も無いのだから、大丈夫だ。
………大丈夫、大丈夫だ。
まるで言い聞かせるように頭の中で言葉を繰り返したけれど
どうしてか追い詰められたように焦燥感に駆られて、御島のことばかり考えてしまう。
いつものように母は稽古へ出掛けて、僕はいつものように部屋で一人、書物を読み耽る。
普段通りのことをしているのに、僕の心は普段と同じじゃなくて
息苦しくて、御島が傍に居てくれない事がどうしてか……………………淋しくて。
俯き、思わず目を伏せた瞬間、母屋の方から何かが割れる音が響いて、僕は咄嗟に顔を上げた。
耳を澄ますけれど、それっきり何も聞こえず、いつものように家の中は静まり返ったままだ。
もしや御島かと考えた僕は本を畳の上へ置いて立ち上がり、襖を開けて廊下へと足を進めた。
母屋へ続く渡り廊下を進みながら、御島の筈が無いと、僕はぼんやりと考え始める。
御島だったら真っ直ぐにこの離れに来てくれそうなイメージが有るし、彼は何かを割るような、そんな無駄なことはしなさそうに思えた。
それでも、もしも御島だったら――――――。
期待感に背中を押されるように足は動いて、僕は御島のことだけを考えながら、母屋へと向かった。
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