黒鐡......14

 御島の姿を捜すように広い家の中を暫く歩き回っていた僕は、角を曲がった先の廊下で、割れた花器を見つけた。
 花台の上から落ちたのだろうか、透けるような碧色をした小さめの花器は、原形をとどめてはいなかった。
 母が持つには似つかわしくないそれは、僕がまだ幼い頃に、お小遣いを溜めて母の為に買った安物だ。
 母は廊下の隅に有る花台の上に此れを置いただけで、花を生けてくれる事もしてくれなかった。
 埃がかったそれは、結局使われないまま割れてしまったのかと思うと、少し物悲しくも思える。
 散らばった破片を暫くの間ぼんやりと眺めていると、少し離れた居間の方から
 話し声が聞こえて来て、はっきりと聞き取れないが声はどうやら男のようだった。
 不意に頭の中に御島の姿が浮かんで、破片から顔を反らした僕は
 音を立てまいと気を配りながら、居間の方へゆっくりと近付く。
 次第に声は、何を話しているのか分かる程に、ハッキリとしたものに変わっていった。

「ええ、まだ見つかりません。何処に隠してやがるんですかね。……いいえ、絶対に諦めませんよ。
あの皿、美術品として売れば二千万なんですよ」
 どうやら声の主は兼原らしいのだが、何だか口調がいつもと違う。
 いつもは穏やかで丁寧な喋り方をしているのに、今は粗雑に感じられる。

 ………皿が二千万とは、どう云う意味だろう。
 不意に、幼い頃祖母が大切そうに手入れをしていた陶器製の器を思い出したが
 それの事かどうかも分からないし、それが今、何処に有るのかすらも知らない。
 知っていたとしても、兼原は他人だし、他人に関心の無い僕は教える事も無かっただろう。
 これ以上兼原の会話の内容を聞く気にはならず、やはり御島では無かったのだと考えた僕は零れそうな溜め息を堪えて、踵を返す。
 割れた花器へともう一度視線を向けて、あれは兼原が割ったのだろうかと、考えた。
 花を生けることすらして貰えず、淋しく粉々になってしまったそれが、一瞬、どうしてか自分と重なって見えた。

 御島がもう二度と会いに来てくれなかったとしたら、僕はまた、一人になるのだろう。
 それはいつもの事だし、一人は慣れているから
 不安がる必要は無い筈なのに、心は、ひどく寒く感じた。

「すみません、カシラ。また掛け直します、」
 シャツの胸元を握り締めた矢先、背後で声がして、僕ははっとした。
 振り向けば、携帯を片手に持っている兼原が真後ろに立っていて、此方を冷たく見下ろしている。
 一瞬だけ見てしまったその双眸は、怒っているように思えたし、蔑んでいるようにも感じられた。
「やあ鈴くん。離れから出て来るなんて、どう言う風の吹き回しかな」
 愛想のいい口調で言葉を掛けて来るけれど、場の雰囲気は和やかとは呼べない程に張り詰めていた。
「偶然です、」
 相手の顔を見たり、目を見ながら会話をするのはやはり御島が相手の時だけのようで、僕は短い言葉を放って軽く俯いてしまう。
 兼原と多く言葉を交わす事もしたくは無く、失礼しますと僕は直ぐに言葉を続かせた。
 軽く頭を下げ、兼原に背を向けて離れへ戻ろうと、足を進める。
 だが数歩進まない内に、強い力で肩を掴まれ、僕は強引に振り向かされた。

「君のその冷めた態度を見る度に、俺は苛ついて仕方ないんだ、」
 よもや兼原がそんな事を云うとは思わなかったけれど、僕は傷付くことは無い。
 相手はどうでも良い人だし、僕は誰かを苛付かせたり
 迷惑がられたりする存在なのだと云うことは、とうの昔に自覚している。
「それは、すみませんでした。…離してください、」
 肩を掴んでいる手を一瞥して声を掛けると、更に力を込められ、流石に痛みを感じた。
 人に触られる事に不快感と嫌悪感を抱き、痛みも合わさって僕は眉を顰める。
 だけど兼原は離してくれず、それ所か目にした口元はうっすらと吊り上がっていた。
 その事に不快感が更に強まって、思わず僕の肩を掴んでいたその手を、思い切り叩こうと自分の手を動かした矢先……

「なあ、知っているかい、鈴くん。美咲さん、君を捨てるつもりだよ」
 唐突に掛けられた言葉に、僕は何度か瞬きを繰り返した。

 ………捨てる?母が僕を?
 内心ひどく驚いたけれど、僕は子供じゃないのだから、流石に泣き喚く真似はしない。
 すると兼原はどうしてか舌打ちを零して、本当に唐突に、彼は僕を突き飛ばした。
 大人の強い力で突き飛ばされ、床に倒れた僕は痛みに眉根を寄せながら、ゆっくりと上体を起こす。

「…気に入らないな。もっと悲痛な顔をしてくれよ、鈴くん」
 兼原の言葉は、意味が分からない。
 不意に、兼原には近付くなと云った御島の言葉が頭に浮かんだ。
 御島は、兼原の本性を見抜いていたんだろうか。
 こうやって、人を平気でいきなり突き飛ばすような、そんな男だと分かっていたのだろうか。

「従姉の、彩子さん居るだろう?あの子を養子にして、家元を継がせる気らしい」
 兼原は僕を突き飛ばしたことを謝りもせずに言葉を続かせ、懐から煙草を取り出すと、何の断りも無く口に咥えて火を点けた。
 僕は気管が弱いから、煙草の煙に過度の反応をしてしまう。
 だから僕は、煙草が嫌いで、それを吸う人はもっと嫌いだった。
 ゆっくりと立ち上がった僕は唇を固く結んで、吐かれる紫煙から距離を取るように一歩後退る。
 けれど兼原は僕を追い詰めるように近付いて来て、その口元は相変わらず吊り上がっていた。
「彩子さんが養子になったら、君の存在は邪魔なだけだ。実の母親にすら厄介払いをされるとは……救われないな、君も。」
 哀れみを帯びた口ぶりで言葉を掛けられ、同情されるのが嫌いな僕は、不快感が余計に強まった。

 兼原の言葉に、胸が痛む事はない。
 僕が居なくなって、違う人が家元を継いで……それで母が幸せになるのなら、傷付く必要なんて何処にも無い。
 母の幸せは、僕が最も望んでいたものだから。

「お話は…それだけですか。それじゃあ、失礼します」
 僕は相手の顔を見ずに、毅然と言葉を返した。
 声も普段通りだし、胸も苦しくはないし、ちっとも悲しくなんて無い。

 ――――大丈夫だ。僕は、傷付いたりなんかしない。

「……本当に気に入らないな、その態度。」
 苛ついたように舌打ちを零した兼原が、唐突に手を伸ばして来た。
 逃げる間も無く再度肩を掴まれ、強い力で壁に押し付けられて、僕は痛みに小さく呻く。

 気に入らないなら、近付かなければいいのに。
 こんな僕に、構わなければいいのに。
 尤もな事を考えて、込み上げる吐き気を堪えながら顔を上げると、至近距離で紫煙を吐かれた。
 煙を少し吸ってしまった僕は口元を抑え、他人に弱さを見せたくない衝動で、何とか咳を堪える。
 すると兼原は煙草を咥えたままの口元を愉しそうに歪ませ、低い笑い声を立てた。
「そう云えばあの男、最近良く来るらしいじゃないか。御島…と云ったかな、鈴くんのお友達かい?」
 兼原の口から御島の名が出るとは思わず、予想外の話題に
 僕は無意識に少しだけ反応して、火の点いた煙草の先端をじっと見つめた。

 友達だなんて、そんな馬鹿な事、有る訳が無い。
 御島は………何なんだろう。
 今更ながら、御島と自分の関係が何なのか考えてしまうけれど、答えなんて出ない。
 他人と呼ぶにはあまりにも関係は深いように思えて
 だけど大切な人と呼ぶには、何かが欠けていて、関係はとても浅いように思える。
 御島との関係性に悩み、戸惑う僕に兼原はもう一度紫煙を吐き捨てて
 考え事に集中していた僕は、堪えられずに激しく咳き込んでしまった。
「あの御島って奴も、あれを狙っているのか。それとも……君が家元を継ぐ身だと勘違いした上で、近付いているのか。
まあどっちにしろ、鈴くんは利用されているだけだろうな、」
「り、利用…?」
 立て続ける咳の間から、搾り出すような声で問い掛ける。
 兼原は何が可笑しいのか、もう一度低い笑い声を立てて、煙草を咥えたまま唇を動かした。
「それしか無いだろう?脆弱で、人に面倒ばかり掛けて、生きている価値すら無い君に……
何の目的も無く近付く奴なんて居る訳が無い。……いや、でも物好きな人も居そうだな、」

 思い付いた、とでも云うように言葉を一度区切って、兼原はひどく下劣な笑みを浮かべた。
 肩を掴んでいた手を今度は僕の首元へ移動させて、手を回して来る。
 咳を止められずにいる僕を満足気に見てから、相手は顔を近付けて来た。
 火の点いている煙草の先端が危うい程に近付いて、数センチ間を取っていても、熱が伝わる。

「男の癖に、鈴くんは美人だものな。美咲さんより綺麗だから……囲うのを目的で、君に近付く奴だって居るかも知れないなぁ…、」
 兼原が言葉を紡ぐ度に、咥えられた煙草が揺れて、危なっかしい。
 けれど触れそうなその先端を恐れるよりも、僕の心は兼原の言葉に、大きく動揺していた。

 囲うのが目的……それは本当に、御島に当てはまる。
 自他共に認める程の世間知らずな僕だって、囲うと云う言葉が何を意味しているのかは知っている。
 御島がキスをしたり、僕にあんな事を何度もして来たのは、それが目的だったのだろうか。




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次頁は、少し暴力描写が有ります。