黒鐡......15
―――――――そうだ。
こんな、何の取り柄も無い僕に、御島が構ってくれる事自体、変な話だったのだ。
兼原の云う通り、脆弱で、人に面倒ばかり掛けて……
そんな僕を、好きでいてくれる人間なんて、居る訳が無い。
御島が口にした、僕を好きだと云う言葉は…………僕の顔が、好きだと云う事か。
…………別に、大した事じゃない。
御島が、好きでいてくれたのは僕の容姿で、僕自身では無かっただけの事だ。
ただそれだけのちっぽけな事だから、全然大した事じゃない……筈、なのに。
それなのに、どうしてこんなにも、心が苦しいんだろう。
「あぁ、鈴くん。それだよ、俺が見たかったのは。俺はね、君の顔だけは好きだったんだが…ようやく少しだけ、君自身も好きになれそうだ。
全てに無関心な君を崩すのは、愉しいなぁ…」
兼原はそう云って、煙草を壁に押し付けて火を消し、僕の頬を伝う雫を指で拭い取った。
僕は、誰かの言動で泣いた事なんて、無いのに………。
そう考えた瞬間、僕は御島の前で二回も泣いた事を思い出した。
一回目は、初めて御島と言葉を交わした日で、あの時は悲しくも、淋しくも辛くも無いのに何故か涙が零れた。
けれど今は――――――胸が、締め付けられるように痛くて、苦しい。
どうしてだろう……御島が、僕自身を好きじゃなかったから?
それが苦痛の理由だとしたら、僕は馬鹿だ。
御島に好きだと云われて、悪い気はしていなかった僕は、本当に大馬鹿だ。
御島は僕自身を好いてくれているのだと、勘違いしたままで、いつまでも気付かずにいた。
ちゃんとじっくりと考えれば、直ぐに分かったことだ。
男の癖に弱くて、他人に迷惑を掛けなければ生きていけない、
誰からも嫌われるような面倒な僕を、誰が好きになってくれるんだろう。
生きている価値すら無い、母にすら厄介払いされる僕なんて…………誰からも、必要となんてされないのに。
「美咲さんが君を捨てたら、組長に差し出すのもいいな。オヤジは君みたいな、綺麗な子が好きなんだが……」
零れる雫もそのままに、目を伏せて声を殺しながら泣いていると、兼原は喉をごくりと鳴らした。
そして唐突に、僕の首を掴むように回していた手にぐっと力を込め、首を絞めて来た。
圧迫感に眉を顰め、喉奥が痛み出して、頭の方に何かが上がってゆくような感覚が苦しくて、僕は兼原の手を両手で掴んだ。
「……参ったな、俺も君が欲しくなって来た、」
「―――――悪いが、そいつは無理だ。」
兼原の背後からいきなり、静かな低く冷たい声が響いて、僕の首を絞めていた手が離れた。
苦痛から解放された僕は息を吸い込む事に夢中になり、身体を曲げて激しく咳き込む。
咳を続け、頭痛がし始めたのを感じながら兼原の方を見ると、その背後には
彼よりも長身の男が…………御島が、立っていた。
片手で兼原の首後ろを掴んで、もう片手に持っていた万年筆を、相手の目元に近付けている。
凶器とは思えないそれを突き付けている御島の雰囲気は冷たく、息が詰まって身動き一つ出来無いような、黒々しいものになっていた。
今にも人を殺しそうな、狂気的な殺気を滲ませている御島を前にして
僕は殺気とか狂気とかを目の前にした事は無いけれど、これがそうなのかと思わずには居られなかった。
「兼原さん、でしたよね。知っていますか、こう云うのでも簡単に目を潰せるんですよ。それに……喉を突き刺す事も出来る、」
御島の口調は慇懃なものに変わって、だけど僕に掛けてくれるような優しい声は、今は何処にも無くて………
恐ろしい事を躊躇いも無く口にして、まるでこれが本性なのだと云わんばかりの、鋭い狂気を含んだ声に身が竦んだ。
間近の万年筆を見つめている兼原の顔はひどく青ざめて、身体も微かに震えている。
やっぱり、御島が恐いと思うのは、僕だけでは無かったのだ。
「喧嘩のやり方も知らず、ただ組長に尻尾を振り続けて、そこまで昇格したらしいじゃないですか。
あそこの組は、本当にくだらないですね。……消えた方がいい、」
「あ、あんた…何処のモンだ…」
僕には全く分からない話をしていて、けれど僕は考える事よりも、御島の迫力に怯えることしか出来なかった。
「さあ、何処のものでしょうかね。……おい鈴、こっちに来い、」
恐ろしく冷たかった声は打って変わって、僕に向けられた御島の声色は、いつものように優しい。
だけど雰囲気は相変わらずで、壁に身体を寄りかからせたまま足は震えて
立っているのがやっとと云った状態の僕に、御島は焦れたように舌打ちを零した。
「全く、手間の掛かるやつだな、」
やれやれと呟いた瞬間、信じられない事に御島は、兼原の項を掴んだまま真横の壁に向けて、相手の顔を叩き付けた。
鈍く大きな音が響いて、兼原は何か呻き声を漏らしたけれど御島は構わず、
それから相手の頭を何度か引いては壁に叩き付けた。
その度に身体が竦むような鈍い音と兼原の悲鳴が上がり、僕はみっともない程、身体を震わせてしまう。
こんな、圧倒的で痛々しい行動を間近で見た事の無い僕にとって、目の前の光景はあまりにも恐ろしく思えた。
思わず顔を反らして目を瞑っていると、やがて音は止み、御島が僕の名を
いつもの優しい声色で呼んだから、恐る恐るゆっくりと目を開ける。
兼原はぐったりと床に転がり、壁には生々しく血が付着していた。
それを目にして、ひっと悲鳴を小さく上げたけれど、御島は気にもしていないように僕に近付いて、手を伸ばして来た。
兼原の頭を壁に何度も叩き付けていた、暴力的な恐ろしい手が僕の頭に触れて、思わず肩がびくりと跳ねる。
すると御島は笑って、いつもしてくれたように、僕の頭を優しく撫でてくれた。
「久し振りだな、鈴。今日はどうだ、調子はいいか?どこも悪くねぇか、」
兼原の存在なんて無いみたいに、何事も無かったかのように御島の雰囲気は
穏やかなものになっていて、だけど僕は震えながら頷く事しか出来なかった。
御島は頷く僕を見て、そうかと呟いて、そして彼は急に僕を肩に担ぎ上げ、玄関の方へと足を進めた。
何かを云いたかったのに、情けなくも恐怖で声が出せず
結局何も云えないまま、抵抗も出来無いままに、僕は御島に連れて行かれた。
外に停められてあった車の、後部座席のシートへと優しく下ろされ
幾らか恐怖が和らいで来た僕は、御島は一体何者なんだと不思議に思っていた。
普段の荒々しい足音も立てずに、いつの間にか兼原の背後に近付いていたし
暴力的で、しかも易々と大人の男を壁に叩き付けたりして……
そこまで考えると、先程の凄絶な光景を思い出してしまって、僕はぞっとした。
隣に座った御島は運転席の男へ、出せと冷ややかな口調で命じて、そして直ぐに僕へ顔を向けて唇を緩めて目を細めて来た。
「み、しま…さん、」
「どうした、鈴」
まだ少し声は震えてしまって、だけど御島は此方を見下ろして、僕の話をきちんと聞こうとしてくれている。
「あ…あの、どうして…暫く来なかったんですか、」
頭の中では御島の暴力的な場面が思い浮かび、彼は一体何者なのかと、僕はそればかり疑問に思っていた。
だがそれは何だかとても聞き難くて、僕はもう一つ気になっていた疑問を口にする。
「ああ、少し野暮用でな。……淋しかったか、」
揶揄するようにニヤニヤと笑う御島を前にして、そんな筈ないと答えるべきだったのに、僕はどうしてか素直に頷いてしまった。
御島は意外そうに片眉を上げ、そして急に僕の顎を、指でそっと掬い上げた。
「御島さ…、ま、待ってください…っ」
まさかこんな所でキスをしてくるのかと思い、僕は運転席の男へと視線を向ける。
運転手が居るから嫌だと目で示したのに、御島は気にしていないように顔を近付けて来るものだから、つい慌ててしまう。
焦って顔を反らそうとするけれど、顎を掴まれていてはそれも出来ず、御島は一度喉奥で低く笑ってから、唇を重ねて来た。
久し振りの感触に、どうしてか身体が少しだけ震える。
「鈴…、俺が傍に居ると、嬉しいか?」
少しだけ離れた唇の間から低く通る声で問われ、僕は首を縦にも横にも振らずに、瞬きを何度か繰り返した。
―――――御島の云う事は、事実だ。彼が傍に居てくれる事が、嬉しく思える。
だけど本音を告げるのが何だか恥ずかしくて、僕は答えない代わりに相手をじっと見つめた。
すると直ぐに御島の冷たい唇が重なって、今度は咬み合わせをより深くされ
滑り込むように、彼の舌が口腔へと半ば強引に侵入して来る。
「んっ、ぅ…っ」
あっさりと舌を絡め取られ、きつく吸い上げられ、身体の奥底から湧き上がるような熱に悩まされた。
御島のキスはいつだって、直ぐに僕の思考を奪う。
相手の肩を縋りつくように掴んだ瞬間、不意に兼原の言葉が頭に浮かんだ。
咄嗟に身を少し捩ると、それに気付いた御島は、ゆっくりと唇を離してくれる。
「か、兼原さんは……大丈夫、でしょうか、」
訊きたいのはそんな言葉じゃないのに、僕は的外れな質問を口にした。
僕の問いを耳にした御島はどうしてか眉を寄せて、小馬鹿にするように鼻で笑った。
「おまえに触れた上、おまえを泣かせたんだ。殺されても文句は言えねぇだろう、」
御島が発した言葉があまりにも冷たく、僕は一瞬だけ先程の恐ろしい御島を思い出し、自然と眉根を寄せてしまう。
兼原のことはどうでもいいし、別に彼が傷付こうと構いはしないのだけれど
彼が死んでしまったりしたら母が悲しむだろうし、それに御島だって、殺人で捕まってしまう。
母が悲しむ、と云う事よりも御島が捕まる方が嫌に思えて、僕は不安に駆られて御島を見つめた。
「おい…他人の事なんぞどうでも良いだろう。いつまでもあんな奴の心配なんかしてるんじゃねぇよ。妬くぞ、」
やく、とは何だろうかと考え、訝る僕に向けて御島は大きな舌打ちを零した。
大体、僕は兼原の心配じゃなくて、御島が捕まらないかを心配しているのに……
御島は捕まることなんて何とも思っていないのだろうか。
そう思うけれど彼がもう一度舌打ちを零したものだから、御島が一層不機嫌になった事に僕は焦って、すみませんと謝罪を一つ零した。
だけど御島は気を悪くしたように更に眉を顰めて、大きな手を僕の頬に当てて来た。
「鈴、あいつに何を言われた?おまえが首を絞められたぐらいで泣くような奴じゃねぇって事は、良く知っている。……何を言われた、」
最後の、二回目の問いは恐いぐらいに声が低く、まるで脅すような口調だった。
怒っているとも取れるような表情で僕を見下ろしている御島の雰囲気が、少し鋭いものになり始めて、僕は微かに震えてしまう。
力強い双眸の、圧倒的な威圧感に身体がひどく緊張して、御島はどうしてこうも
恐ろしい人間なんだろうと、僕と同じ人間なのにどうしてこうも違うのかと、僕は何も答えずにそんな事を考えていた。
「鈴…いい子だから答えろ、」
頬を撫で、親指で目元をなぞった御島の囁くような問い掛けに、僕はようやく、本当に弱々しくだけれどかぶりを振った。
「母が…僕を捨てる、と…」
「それだけか、」
「ほ…他には、何も言われて、ません」
相手の静かな問いに、僕はたどたどしく視線を逸らし、少し震えた声で答えた。
御島を、本人を前にして、言える訳が無い。
御島が僕自身を好いてくれているんじゃないと分かったから、
それがとても悲しくて僕は泣いたんです、だなんて……馬鹿らしいにも程が有るじゃないか。
「そうか。……鈴、俺に嘘を吐くとは、大した度胸だなぁ…えぇ?」
鋭利さを含んだような声音に、僕は一瞬で背筋を凍りつかせた。
雰囲気さえも、どす黒く、獰猛な獣を感じさせるような……息苦しささえも覚える程の、張り詰めたものに変わる。
目元をなぞっていた手がゆっくりと移動して、彼の大きな手が僕の首筋に回って――――。
僕は思わず小さな悲鳴を上げて、逃げるように身体を捩った。
御島が、兼原をいとも簡単に傷付けた暴力的な御島が、兼原のように僕の首を絞めて来るのかと思って
この瞬間、心底僕は御島を恐れて怯えた。
「何を怯えてやがる……俺がおまえに手を上げるとでも思っているのか、」
けれど御島は僕を見て軽く笑って、ゆっくりと優しく、首筋を指で撫で上げて来た。
口調も雰囲気も相変わらずだけれど、その手付きだけは丁寧で、ひどく優しい。
「い、今の御島さんは………こ、恐い…」
僕は何とかして逃げようと顔を引きながら、搾り出すように震えた声を出す。
御島はその途端、すぅっと目を恐いぐらいに細めて、直ぐに首筋から手を離してくれた。
どうしてか御島のその表情がひどく冷たく、恐ろしく思えて、僕は逃げるように端の方へ動いて距離を取る。
行き止まりだと告げるように僕の身体がドアに当たった瞬間、
唐突に伸びて来た御島の手が僕の肩を掴んで、強い力でドアに押さえつけられた。
「……鈴、俺をあまり怒らせるなよ。言え、何を云われた。…言わねぇと、今直ぐ此処を咥え込むぞ」
「な…っ」
そう言った御島が片手で僕の股間部を撫でて来て、絶句した。
車内は広く、体勢によれば出来るのかも知れないけれど、そんな事は絶対嫌だと云うように、僕は何度もかぶりを振る。
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次頁、少しエロ強めです。