黒鐡......17


 僕はもう何もかもを諦めたし、御島にはどうやっても敵わない事を思い知らされた。
 必死で守っていたプライドをいとも簡単に剥がされたのだから、隠すことはもう無い。

「兼原の野郎がそう言ったのか、」
「兼原さんは…僕の顔は美人だから、囲うのを目的で僕に近付く人だって居る、と」
 目を伏せて、ただ単調に言葉を返すと、御島は僕の頭から手を離した。
 離れてゆく感覚にひどく胸が苦しくなって、僕は眉根を寄せて、訊かれてもいないのに言葉を続かせた。

「御島さんは僕の顔が好きなんですよね。美人な母に似ているから、僕は顔だけは良い。けれど他は最悪だ。
直ぐに厭きるに決まってます。早く手放した方がいいと思いますよ……僕なんかに十倍もの値を出すなんて、勿体無い」
 元値は幾らか知りませんが、と言葉を続かせて、僕は短く息を吐いた。
 何だかまるで、自棄になっているみたいだと考えて、事実その通りなのかも知れないと思う。

「聞いていたのか、」
 責めるような口調でも無く、ただ静かに御島はそう尋ねて、ベッドの上へあがって来た。
 盗み聞きするような人間なのだと分かったのだから、今直ぐにでも僕を手放しても良い筈なのに、
 御島はどうしてか僕を優しく抱き起こして、胡坐を掻いた膝の上に僕を座らせてくれた。
 抵抗はせず、ただ視線を逸らして頷いた僕の腰を、御島は片腕で抱いて来る。
「……人を、八人も殺したって、本当なんですか」
「俺の本業だからな」
 躊躇いがちな僕の問いに、御島は本当に素っ気無く答えた。
 つまらない仕事だとでも云うような御島の姿に、僕は何度か瞬きを繰り返す。

「人を殺すだなんてしたら、捕まってしまう」
 尤もな事を言ったのに御島は一瞬片眉を上げて、どうしてか、可笑しそうに笑い出した。
 笑い所が分からず、半ば呆然と相手を見据えていると、やがて御島は笑うのを止めて一度だけ深く息を吐いた。
「おまえ……ガキの頃と同じことを云っている、」
「え…、」
 ガキ、と聞いて思わず訝るように眉を寄せたけれど、そう云えば御島曰く僕は昔彼と会っているのだと思いなおす。
 でも僕は御島の事なんて覚えてもいないし、人違いでは無いかと結論を出して、気にしない事にしていたのだ。
「あの…その事なんですけど、僕は覚えていません。人違い、なんじゃないですか?」
「……知っているか、鈴。人間は極度のストレスや精神的なショックにぶつかると、その部分の記憶が消える事も有るらしいぜ」
 微妙に話をそらされて、一体御島は何が言いたいのかと考えていると、相手は僕の髪を指で梳くように撫でた。

「――――俺は過去に、おまえを殺そうとした事が有る。頼まれて、な」
 放った言葉に似付かない、優しい声音が耳の奥に響く。
 あまりにも優しい物言いだったから暫くの間、上手く言葉が理解出来なくて、理解した瞬間僕は瞠目した。
 だけど、この優しい御島が僕を殺そうとしたなんて、そんな事、俄かには信じられなかった。

「…た、頼まれたって、誰にですか」
古谷(ふるや)に強い恨みを持つ奴、だな。古谷は本妻との間に子供は居ないが、妾腹のガキが居る。…おまえの事だ、鈴。
おまえの存在を知ったそいつは、おまえを殺して古谷に大きな傷を与えて、苦しめてやりたいと願っていた」
 古谷とは、父の名字だ。けれど父は、僕を愛しては居ない。
 僕が殺された所で、父がダメージを受ける筈が無い。

「……父さんは、僕が死んだとしても悲しみません」
「ああ、だろうな。だが、そこまでは分からなかったらしい。ガキを殺すだけで一億出すと云われた。
こんな良い話は中々ねぇからな…請け負って、俺はおまえを殺しに行った訳だ。」
 ひどく淡々とした口調で御島は言って、僕は何だか居た堪れなくなって、目を伏せた。

 そんな、そんな事は全く覚えていない。
 やっぱり御島は人違いをしているんだと考えて、だけどふと、さっきの御島の言葉が……
 ストレスやショックにぶつかると、その部分の記憶が消える事も有ると云った言葉が、頭の中に浮かんで消えた。
 口の中が少し渇いて、その事に僅かに眉を寄せながら僕は口を開く。

「どうして、どうして僕は…生きているんですか、」
「覚えていないだろうが、おまえは俺に向けて、殺してもいいと口にしやがった。
……死ぬ事にも生きる事にも無関心なガキが、どんな人間になるのか見たくてな。
単なる俺の気紛れで、見逃しただけだ。死なない程度におまえの首を絞めて気絶させたから、忘れたくもなるだろう」
 御島の言葉を聞いて、僕はそうだったのか、としか思えなかった。
 あまり実感が湧かず、過去の事だからと考えるだけで、恐怖も感じない。
 だって僕はこうして―――御島の気紛れだとしても生きているし、今の御島はとても優しいから
 僕を殺そうとしたのだと聞いても、それは過去のことだからと考えて、僕は逃げる気にはなれなかった。

「古谷の近くに居りゃ、自ずとおまえに会えるかと思ったが……肝心のおまえが、俺を忘れてやがる。正直、少し腹が立ったぜ」
 もしかして、僕が父と言葉を交わしている間、責めるような冷たい双眸で睨んでいたのは
 よもやその所為だったのかと考えて、僕は何だか苦笑してしまいそうだった。
 僕みたいな人間を嫌悪しているのだろうと、あの時はずっと思っていたのに……。
 それにあの時は、こんな風に御島と言葉を交わす日が来る事なんて、思っても居なかった。
 伏せていた目を上げて御島へ視線を向けると、彼はどうしてか急に、くくっと低い笑い声を立てた。

「…にしても、成る程。俺がおまえの容姿だけを気に入っているんだと、勘違いしていた訳か」
 話が唐突に元に戻ったけれど、僕は思考の切り替えが直ぐに出来なかった。
 遅れながら御島の云った言葉の意味を理解して、勘違いじゃなくて事実だろうと考える。
 すると御島は僕の考えを見抜いたようにもう一度低く笑って、唐突に僕を抱き寄せて来た。
「それでおまえは傷付いていたのか、」
 御島の問いに、僕は少しだけ目を見開いた。

 僕は……傷付いていたのだろうか。
 そう考えて、でもそんな馬鹿な事は有り得る筈が無いと、直ぐに思いなおした。
 だって僕は、誰かの言動で傷付いたことなんて、無いのだから。

「……ぼ、僕は、傷付いてなんかいません」
「そうか?今にも泣きそうな面をずっとしていたが……だから、あんな事までして聞き出そうとした」
 あんなこと、と云われて僕は先程の行為を思い出して、急激に体温が高まる。
 下肢に熱が溜まるのを感じて、その感覚を誤魔化すように、僕は慌ててかぶりを振った。
「鈴の可愛い言葉まで聞けて、最高だったぜ。……俺の指がいい、ってな」
「ぁ…、」
 耳元でやけに甘い声で囁かれ、身体が震えて、僕は咄嗟に御島の肩を掴んだ。
 とんでも無い言葉を口走った自分を思い出させられて、僕は否定するように目を瞑る。

「…確かに、おまえは美人だ。その顔が気に入って俺のものにしようと思った。始めは、な」
 唐突な御島の言葉に、僕は恐る恐る瞼を開けた。
 始めは、と云う言葉が心に引っ掛かって、相手へ視線を向けた途端、御島はどうしてか苛立ったように舌打ちを零した。

「だがな、おまえの所に通っている内に気付いたが………おまえ、中身が堪らなく可愛い」
 中身……とは、内面のことだろうか。
 御島の言葉を考えて見るけれど、そんな馬鹿なと、直ぐに否定した。
 僕は可愛いなんてものじゃなくて、無愛想で無関心で、子供の時から可愛く無い子だと散々言われて来たし、
 だから御島が云っている事はおかしい。

「み、御島さんは…嘘を吐いている。僕は、顔しか良い所が無いんだ」
「あのなぁ、鈴。顔だけを気に入った奴なんかに、俺は好きだなんて云わねぇぞ。
直ぐに突っ込んで適当に抱いて囲って、飽きたら捨てる。それだけだ」
 御島は僕の額に自分の額を押し付けて来て、苛立ったように言葉を吐いた。
 突っ込んで、とは何かと訝ったけれど、御島は誰かに易々と好きと口にするような人間には見えなくて、
 僕はその部分には少なからず納得した。
 だけど……。

「いいか鈴、俺はおまえに惚れてんだ。何度でも云うぞ、おまえは中身が可愛すぎる。顔も美人だが、それ以上に内面が堪らねぇ」
「う、嘘だ…、」
 今になって、御島が本気で僕を好いているのだと……好きと云うのは、もっと深い意味の好きだったのだと理解出来た。
 彼が今まで口にしていた、好きと云う言葉の意味がどれだけ深いものだったかなんて、僕は知らなかったし考えもしなかった。
 衝撃的な事実に僕は否定の言葉を放って、嫌がるように身を捩った。
「何が嘘だと思う、」
 けれど御島は僕の腰をしっかりと抱いて、あの強い眼差しで僕をじっと見据えて――――。

 兼原だって云っていたじゃないか。
 脆弱で、人に面倒ばかり掛けて、生きている価値すら無いと。
 僕は自分ですらそう思うし、だから、だから…………。

「俺がおまえを物のように金で買った事を気にしてるのか?その事で傷付けたんなら、謝る。だがな、俺はおまえを離したくねぇんだ」

 嘘だ、嘘だ。
 こんな……御島の言葉に、嬉しくて仕方が無い自分が居るなんて、嘘だ。
 それ所か、心はひどく温かくて心地好くて……この訳の分からない感情は、何なのだろう。
 答えの出ない無駄な自問は止めようと決めた筈なのに、この喜びよりも強い、ひどく心地好い感情が何なのか気になって仕方が無かった。

「なあ鈴、俺がおまえの容姿を好いているんだと勘違いして、どうしてそんなにその事を気にしていたのか、自分で分かっているのか」
 だけど御島の問いを耳にして、僕は少しだけ目を見開いた。
 そうだ、それも疑問だった。
 御島が僕の顔を好きなだけだと思って、その事がひどく辛かった。
 でもそれはどうしてなのか、何で心が苦しかったのか考えても答えは一向に出なくて、どんなに考えても分からなくて………
 考える度に胸が苦しくなるから、いっそ考える事自体やめてしまおうと、僕は考えることを放棄したんだ。

「分からない、です……御島さんは、分かるんですか」
 御島なら、何でも知っていそうなこの男なら、答えを知っているのだろうか。
 思わず相手をじっと見つめると、御島は何故か眉を顰めて、苛立ったように舌打ちを零した。

「俺が教えたら、意味がねぇんだよ。そう云うのはおまえが自分で気付く事に、意義が有るんだ。
……くそっ、この俺が心底惚れてるおまえを、喰わずに待ってやってるんだぞ。いい加減、早く気付け」
 良く分からない事を言われて、何が何だか分からなくて、だけど御島の双眸がひどく真剣な色を浮かべていたから………
 気付く、と云うことは、とても大切な事なのだろうと思えた。
 きちんと考えてみようと決めて僕が頷くと、御島はいい子だと優しい声で呟いてくれて、僕の首筋へ顔を埋めて来た。

「俺はおまえが気付くまで幾らでも待つし、耐えるが……俺から離れたら、容赦はしねぇぞ」
 首筋を軽く舐めた御島がそう囁いて、彼が囁く度に肌に息が掛かって、僕は少しだけ身体を震わせた。
 御島の言葉は、最後の方は脅すような低く鋭いものに変わって、雰囲気も少し黒々しくなったのに、僕は怯える事は無かった。
 御島が僕を必要としてくれているのだと、こんな僕を本気で好いてくれているのだと
 その事に僕はひどくどきどきしていて、胸が熱くて、御島を恐いとは思えなかった。
「好きだ、鈴。好きで好きで堪らない。なあ、この俺が耐えるなんて有り得ねぇ話なんだぜ」
「ん…っ」
 言葉の後に少し痛みを感じるぐらいにそこをきつく吸われて、軽く咬まれて、体温が上がる。
 有り得ない話、と御島は云ったけれど、僕は御島の事を深く知っている訳でも無いし、だからそれが本当に有り得ない事なのか分からない。
 僕は御島に関して知らない事が多すぎるから、もっと、御島の事を知りたいと………
 強くそう思って、だけど本人に尋ねる事はとても恥ずかしい事のように思えた。

「み、御島さん……僕は、これからどうなるんですか、」
 御島に買われて、僕は一体何をすればいいのかと思って問うと、彼はもう一度だけ首筋を舐めてから顔を離した。
「おまえを此処に閉じ込めるつもりは無い。行きたい場所が有るなら、幾らでも連れてってやるし、欲しい物は何でも買ってやる。
やりたい事が有るなら何でもやらせてやるしな」
 目を細めて笑う御島がひどく優しく思えて、僕は心が無性に温かくなるのを感じる。
 やりたい事、と聞いて僕は、ずっと今までやってみたかった事を頭に思い浮かべた。

「何でも……なら、バイトとか、就職もして良いんですか、」
 僕はこんな身体だし、出来る訳が無いと思っているけれど………僕だって男だし
 もう十九歳なのだから、やはり、自分で稼いでみたいとは思う。
「おまえがやりたいなら、やればいい。だが、他の男に色目は使うなよ。女も駄目だが、」
「い、色目…、」
 そんなものどうやって使うんだと考えて、御島の言葉がとても可笑しくて、僕は彼の前で初めて、少しだけ頬を緩めた。
 すると御島はどうしてか少し瞠目して、それから直ぐに大きな舌打ちを零した。
「鈴、耐えてる俺にそれは反則だろう。生殺しだ、」
 御島は僕には意味の分からない事を口にして、何度か舌打ちを零してから顔を近付けて唇を重ねて来た。

「可愛いな、鈴。泣き顔もそそるが、笑った顔の方がすごく可愛くてたまらねぇ」
 口を離して、唇の傍で囁いて、御島は直ぐにもう一度キスをする。
 今度は深く唇を合わせて、僕の舌を絡め取って、きつく吸い上げて来た。
「ん…はっ、ぅ…ん」
 上顎をじっくりと舐りながら、御島は僕の上衣に手を掛けて、手早く釦を外してゆく。
 服を脱がされることに顔が熱くなって、背筋がぞくぞくとして、僕は堪らずに目を瞑った。

「鈴……俺がおまえを幸せにしてやるからな。俺には幾らでも甘えて、頼れよ」
 御島の甘い囁きが耳の奥まで響いて、甘えるのは嫌だと伝えるように
 僕が微かにかぶりを振ると、彼はまた舌打ちを零して……
 だけど雰囲気はとても優しく感じられたから、僕は可笑しくてもう一度笑って、彼がくれる心地好い熱に浸り続けた。




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