黒鐡......18


 御島の元で暮らし始めてから既に三週間は経って、僕はその間、とても楽しくて仕方が無かった。
 彼は僕を色々な所へ連れて行ってくれたし、初めて行った水族館では人込みに酔って
 気分が悪くなってしまったけれど、御島はそんな僕を責める事なく、いつだって優しく扱ってくれた。
 その上、寝る時も食事の時も御島は傍に居てくれて、寂しさや虚しさを感じる事なんて無かったし、僕は毎日ぐっすりと眠れた。
 もうずっと子供の頃から笑わなかった僕は、御島の些細な一言に笑ったり
 微笑んだりするようになって、御島も僕の笑った顔が好きだと口にしてくれて
 僕は本当に、とてもとても楽しい日々を過ごしていた。
 ――――――だけど。

 楽しいと感じる度に母の事を思い出してしまうようになった僕は、最近また笑えなくなった。
 彼女は僕が居なくなって、ちゃんと幸せになってくれただろうか。
 母が幸せじゃないと、僕は自分が楽しい想いをしては、いけない気がしてならない。
 いつまでも母に拘るのは拙いと思うけれど、御島の傍に居れば居る程、母の事が頭から離れなくなっていた。 
 その事を御島には言わなかったけれど、僕が母の事を思い出す度に御島はまるで
 慰めるように抱き締めたり、優しく頭を撫でてくれたりしたから、多分彼は勘付いている。
 それなのに、母に拘る僕を決して責めたり馬鹿にしたりもしないし、諦めろとも強要しないから御島は本当に優しくて、温かい。
 だけど優しさを向けられる度に、今どうしているのか全く分からない母の事を………母の幸せを、僕はひどく気にしてしまう。

 ――――――母は今、ちゃんと笑ってくれているだろうか。
 読んでいた本の頁を捲る手を止め、僕は自分のその考えを掻き消そうとするように、ゆっくりとかぶりを振った。
 僕は母の事を何時までも考えているべきじゃないし、もっと大切な事を考えなければいけない。
 御島が、自分で気付く事に意義があると言った………
 御島が好きなのは僕の顔だけだと勘違いして、その事がひどく辛かった理由を、ちゃんと考えなければいけない。


 ………僕は、御島がとても好きだ。
 今までの僕の感情や言動を整理してみたら、自ずと答えはそこに行き着いた。
 だけどそれが恋愛感情の好きかどうかはひどく曖昧で、認めるにはどうも経験が足りないように思える。
 人に恋したりとか、そんな経験なんて一つも無いのだから………
 これは恋なのかと自分に問い掛けても、そうだとも違うとも思えないのだ。

「鈴、おい…何処にいる、」
 静寂な空間内に御島の声が唐突に響いて、僕は本から顔を上げた。
 御島の家の地下は驚く事に、まるで僕が良く行く図書館のように書棚が多く並んでいて、僕が好きな本も沢山有った。
 だから御島が外出して暇な時は、僕はいつも此処に籠もっている。
「御島さん、もう戻ったんですか」
 本を閉じながら問うと、あの荒々しい足音が、此方へと向かって来る。
 御島がやって来る前に、この書棚と書棚の間から出なければと僕は焦って、慌てて本を棚に戻した。
 棚と棚の間は広く、御島が入って来ても狭くも無いのだけれど、以前、入って来た御島に
 壁際に追い詰められて淫らな事をされた事が有るから、僕はつい慌ててしまう。
 御島はほぼ毎日のように、時間も場所も選ばずに僕を責め立てて来るから、その点は少し困る。
 急いで出た先で僕は何かとぶつかって、それが御島の身体だと直ぐに気付いた。

「何をそんなに急いでやがる。危ないだろう、怪我したらどうするんだ」
 反動でよろけた僕の身体を、御島は片手で支えるように抱き寄せて、少し呆れた口調で云ってから優しく笑って頭を撫でてくれた。
 意識しているのは僕だけなのかと考えて、一人で焦っていた事を恥ずかしく感じながら、僕は誤魔化すように口を開く。
「僕はそんなに脆くありません。……お帰りなさい、御島さん」
「ああ。ただいま、」
 御島は短く答えてくれて、それから僕の顎をゆっくりと掬い上げて来る。
 いつものように軽いキスをされるけれど、彼の少し冷たい唇が触れると僕はそれだけで背筋がぞくぞくとして、熱が上がってしまう。

「鈴…また此処でされないかと、焦っていたんだろう。本当に可愛いやつだな、おまえは」
 唇を離した御島が可笑しそうに喉奥で笑って、その言葉に顔がひどく熱くなる。
 御島はやっぱり、何でもお見通しなのかと思うと、少し悔しい気もするけれど
 彼からして見れば成人していない僕なんて遙かに子供なんだろうし、分かり易いのかも知れない。

「だ、だって御島さんは、何処でもしようとするじゃないですか。普通は焦りますよ、」
「そうか?…だが鈴は、いつも気持ち好くって泣くだろう。本当は好きで好きで仕方無いんじゃないか、」
 ニヤニヤと笑いながら揶揄されて、そんな事は無いと直ぐに反論するけれど、御島の云う事は事実に近い。
 あの気持ちの好い事を、好きと認めるのはとても恥ずかしいけれど……
 強く拒んだり出来無いのだから、僕はそれがやはり好きなのだろう。

「御島さん、今日は戻るのが早く無いですか?出掛けてから、二時間も経っていませんよ、」
 壁に掛かっている時計を眺めながら、話題をそれとなく反らすと
 御島は僕を抱き締めていた手を離して、ああ…と短く気の無い言葉を返した。
「急な話なんだが、おまえに会いたがっている奴が居てな。おまえさえ良ければ、そいつが待つ店に今からでも連れて行こうかと思うんだが」
「僕の知っている人、ですか…?」
 本当に急な話に僕は怪訝そうに眉を寄せて、御島を見上げた。

 もしかして………母、だろうか。
 母の事が引っ掛かっていた僕は一瞬そう考えてしまったけれど、彼女が僕に会いたがるだなんて、そんな事は夢のまた夢だ。

「いや、俺の従兄弟だ。俺を惚れさせたおまえの事を、見てみたいと煩くてな」
 御島の手がもう一度僕の頭を撫でて、その感触はいつだってひどく心地が好いけれど
 僕は彼の放った、惚れさせたと云う言葉が無性に恥ずかしくて、視線を落としてしまう。
「無理に会う必要は無いぜ、嫌なら断ってやる。」
 優しい声音で囁かれて、髪を梳くようにして頭を撫でられて、僕はそろそろと視線を上げた。

 御島の従兄弟……と云うからには、御島の事を良く知っているのだろうか。
 もしかしたら、僕の知らない御島の話を聞けるかも知れない。
 そう考えて会います、と短い言葉を返すと、御島は一瞬だけ意外そうに片眉を上げ、僕の頭から手を離して鷹揚に頷いた。
「そうか。帰りたくなったら、いつでも云えよ」
 思い遣りを感じさせるような発言に喜びを感じたけれど、直ぐに母の顔が浮かんで………僕は頷いて、少しだけ目を伏せた。









 家の前に停められていた車の脇に立った運転手は、御島に向けて深々と頭を下げた後
 直ぐに車の扉を開けて、そのまま動かずに待機していた。
「乗れ、鈴。今日は助手席だ、」
「え…?」
 御島は促すように少しだけ僕の背を押して、驚く僕には構わずに、彼は運転席へと乗り込んだ。
 扉を開けていた運転手は、行ってらっしゃいませと言葉を掛けて、丁寧な仕種で扉を閉める。
 今日は御島が運転するのかと考えて、彼は免許を持っていたのかと、
 僕は失礼ながらもそんな事を思いながら直ぐに助手席へと乗り込んだ。

「御島さん、運転出来るんですか」
 シートベルトをしながら思わず疑問を口にすると、御島は可笑しそうに笑って、本当は自分で運転する方が好きなのだと教えてくれた。
「だったら、どうしていつも運転手を?」
「此処に居たら、おまえにあんまり触れられないだろう。俺はいつでも、おまえを可愛がってやりたいからな」
 車を滑らかに発進させながら、臆面無くそう言った御島の言葉に、僕は少し唖然とした。
 そんな理由で運転手を雇っているのかと考えて、だけどそれはあんまりだから
 多分御島は、僕をまたからかっているのだと思うことにした。

 御島の運転は如何なものかと思っていたけれど、彼は本当にとても丁寧な運転をしていた。
 あまり振動も無く、滑らかに走行出来るのは車の性能が良いからだと御島は教えてくれたけれど、僕はそれだけとは思えない。
 運転中の彼にあまり話し掛けてはいけないと思ったのに、御島は前を向いたまま、
 僕を退屈させまいとしているのか沢山話し掛けて来てくれた。
 喋りながらも丁寧な運転を続けられるなんて、御島はとても器用なんだなと、僕は関心せずにはいられなかった。
 会話は絶えず、自分からも話題を振ったり質問したりする事が多くなった頃に、僕は不意に、気になっていた事を尋ねた。
「あの、御島さん。従兄弟って…どんな人なんですか?」
「……人間観察を趣味としている、変わった奴だ。歳は三十六で、職は医者をやっている」
 素っ気無く御島は答えて、それから僕に一度だけ視線を向けて、苛立ったように大きな舌打ちを零した。
「それと、根っからのゲイだ。おまえはあいつのタイプじゃねぇから大丈夫だと思うが……一応、気を付けろよ鈴」
「………は?」
 御島の言葉に僕は唖然として、ゲイと云う意味は分かっているから
 訊き返す必要なんて無かったのに、僕は思わず訊き返してしまった。

「それはあの……み、御島さんと同じって、事ですか、」
「俺は女は嫌いだが、必要とあれば抱く。だがあいつは死ぬまで童貞だ、」
「……えっ、」
 童貞、と云う言葉よりも、御島の……女性を抱くと云う言葉に、僕は瞠目した。
 抱くと云う言葉が分からない程、僕は子供じゃない。
「あ、あの…抱くって、最近も…?」
 震えた声で問うと御島は本当に素っ気無く、ああ、と答えた。
 肯定され、思わず御島から顔を反らして俯いて、強い焦燥感に駆られた僕は息苦しさに眉を寄せた。

 男同士では男女のように繋がる事なんて出来無いだろうし、御島は僕に快感をくれてばかりで
 いつも勃起はしているけれど、僕にそこを刺激しろとは要求しないし……
 御島だって、気持ち好くなりたいのだろうし………だから、だから女性を抱くのは当然だ。
 自分に言い聞かせるように考えて、だけど胸がひどく苦しくて、僕はシャツを握り締めた。
 息苦しくて、御島はどんな女性を抱いているのだろうと考えると、どうしてか胸がむかむかする。

 ――――――御島は、僕を好きだと云ってくれたのに。

「嘘、だったんですか、」
「……何の事だ、」
 少し震えた声で呟くと、御島は怪訝そうに尋ねて来る。
 だけど僕は顔を上げられず、悔しくて悔しくて、下唇を噛み締めた。
「黙ってちゃ分からないだろう。どうしたんだ、」
 何も答えない僕に心配そうな声が掛けられて、その声音があまりにも優しいものだったから、
 僕は込み上げて来る強い感情を抑えられなかった。
 何かがぽたぽたと零れ落ちて、ズボンの腿の辺りに丸く小さな染みが出来て、
 そこでようやくぼやけた視界に気付いて、僕ははっとした。

「鈴?お、おい…どうした、」
 急に泣きだした僕に向けて、御島が焦ったような声を上げたけれど、僕は何も返さずに腕で涙を拭う。
 すると、伸びて来た御島の手が僕の顎を捕らえて、強引に御島の方へと顔を向けさせられた。
 運転中じゃないのかと考えるが、いつの間にか車は停まっていて、御島は眉を顰めて僕を見据えていた。
 黒い双眸は心配そうに僕を映し、御島は反対の手で僕の目元をゆっくりとなぞって来る。
 御島の手付きがあまりにも優しくて、僕は零れる涙を抑えられずに、しゃくり上げた。

「僕を、好きだと言ってくれたのは、嘘だったん、ですか…、」
「おい…どうしてそうなる、」
 顔を近付けた御島が苛立ったように舌打ちして、だけど頬にあやすようなキスを何度もしてくれた。
 零れる雫を舐め取って、宥めるように頭も撫でてくれて…………。
「い、嫌……嫌です…、」
 身を捩って御島から逃れて、僕は震えた声で言う。
 でも、御島の事が嫌なのでは無い。
 僕が嫌なのは―――――。

「御島さんが、他の人を抱くなんて………嫌だ、」
 搾り出すような弱々しい声を零して、僕は目を瞑った。
 瞼を閉じるとまた更に涙は零れて頬を伝って、だけど御島はそれを舐め取る事はしなかった。

 これは、これはただの我儘だ。
 我儘なんて言えば、御島を困らせるだけなのに。迷惑を掛けてしまうのに。
 僕は迷惑を掛けて御島に嫌われたくは無いし、困らせたくもない。
 それなのに、僕は溢れて来る感情を、掻き消す事が出来なかった。

「御島さんは…僕を好きだと、それなのに……嫌です、他の人に…優しくするなんて…」
 御島のあの優しさは、僕だけのものだった筈なのにと考えて、そこでようやく僕は、はっとして瞼を開けた。

 僕は………何を言って、何を考えているんだろう。
 人の優しさを独占するだなんて、まるで子供のする事じゃないか。

「な、何でも有りません、すみません……忘れてください、」
 自分の醜い独占欲にひどく嫌気がさして、御島の反応が恐くて、僕は相手を見れずに言葉を紡いだ。
 取り返しのつかない事を言ってしまったと考えて、こんな浅ましい僕など御島に嫌われてしまったのでは無いかと考えて、下唇を噛む。
 すると御島の手が僕のシートベルトを外したものだから、もしかして車から追い出されてしまうのかも知れないと
 そう考えた瞬間――――僕は強い力に引かれて、気付くと御島に抱き締められていた。

「仕方ねぇだろう…性欲を処理しておかないと、俺だって余裕が無くなる」
 彼の胸元に顔を押し付けさせられて、車中での少し無理な体勢が苦しかったけれど
 それ以上に御島の言葉が突き刺さって、胸が苦しい。


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