黒鐡......19


「だがな、鈴。俺はおまえ以外に、優しくなんてしてやれねぇぞ」
 苛立ったように舌打ちを零し、そこは勘違いするなよと告げて、御島はあやすように僕の背を優しい手付きで緩やかに撫でてくれた。
 その言動に少しばかり心が落ち着いて涙は止まるけれど、御島が他の人を抱くことはやっぱり嫌だ。
「…み、御島さんが…性欲処理の為に女性を抱くんなら、僕、御島さんと同じことを…や、やりますよ」
 僕が御島のを手で刺激すれば……口では流石に出来無いけれど、そうやって性欲を処理すれば
 もう女性を抱くことは無くなるかも知れないと、僕はそう考えて顔を上げた。
 御島が僕の知らない誰かに触れて、僕の知らない所で性欲を処理してるだなんて……
 それだけはどうしても嫌で嫌で、仕方が無かった。

「何だと?」
 眉間を寄せてひどく不機嫌な顔になって、御島は恐いぐらいに低く鋭い声を出した。
 威圧的な迫力に怯んで、肩が一瞬跳ねてしまったけれど、僕は負けまいと御島を見据える。
「だって、御島さんのを僕が手で刺激すれば、性欲を処理すれば……もう女性を抱くことは、無いじゃないですか」
 真剣な口調で言葉を放って、だけど僕はどうしてそうまでして、御島に他の人を抱かせたくないのかと、考えていた。
 僕は御島を独り占めしたいと、心の奥底で、思っている。
 だけど、それは、どうしてなんだろう。

「ああ、そう云う事か……てっきり、おまえが女を抱くのかと思ったぜ」
「な…っ、」
 表情を和らげた御島の言葉に、僕は少しばかり目を見開いた。
 そんな事、出来る訳が無いじゃないかと考えて、僕は顔が熱くなってゆくのを感じる。
 それに僕は御島以外の人と……それが女性だろうと、キスをしたいとは到底思えないし
 誰かの身体に触れたり触れられたりするだなんて、考えただけで嫌悪感が湧く。
「鈴、悪いがそれだけじゃ処理にはならねぇよ。おまえには分からないだろうが、人を抱くのは堪らなく気持ちが好いからな」
 御島はひどく素っ気無い口調でそう云って、云った後に鼻で軽く笑ったものだから、僕は悔しさに目を伏せた。

「それにな、鈴。俺はおまえの事が好きで好きで仕方が無いが……おまえは違うだろう。
今のままだと、ただの一方的な俺の片想いだ。俺たちは恋人同士でも無い」
 尤もな言葉に、僕は否定なんて出来なかった。その通りだと、認めざる負えない。
 だから御島が他の人を抱いても、それは浮気でも何でも無いし、僕は恋人でも何でも無いのだから、文句を言える資格も無い。
 それなら、僕が嘘でも御島を愛しているとでも言えば、もう誰かを抱く事は無くなるのだろうか……
 そう思ったけれど、僕は直ぐにその考えを掻き消した。
 僕を本気で好いてくれている御島を、軽々しい言葉で騙すなんて、出来る訳が無い。

「だったら、だったらもう……僕に、何もしないでください。他の人を抱く手で、僕に……」

 ―――――――もう、触らないで。

 そう言おうとしたのに、唐突に御島に唇を塞がれて、僕は言葉を失った。
 深く重なった唇に身体が少し震えて、強引に侵入して来た御島の舌に、思考も一緒に絡め取られて背筋に寒気が走る。

「ん…っ、…ぅ…ん」
 口腔を舐られて探られ、きつく吸われて息が弾んだ。
 身体の芯から熱くなるようなキスに、言おうとした言葉も忘れて浸った。

「…そこまで自分で口にしておいて、何で分からねぇんだよ。くそっ…、本当に生殺しの気分だ」
 舌を抜かれて唇を離され、そんな言葉を掛けられても僕はまだ少し陶酔したままで、呼吸を少し乱していた。
 御島が濡れた唇をうっすらと舌で舐めて、その様子がひどく官能的で、背筋がぞくりとする。

「おまえに何も出来なくなるぐらいなら、他とはセックスしない。禁欲した方がマシだ。……だがな、どうなっても知らねぇぞ。
我慢し切れなくなったら、容赦無くおまえを抱くからな」
 女性を抱く事と同じ意味の抱く、と云う言葉だろうかと訝って、だけど男同士で
 男女のように抱き合える訳が無いじゃないかと、僕は眉を寄せた。
 御島は時々理解出来ない言葉を放つし、それをちゃんと説明する事もしてくれない。
 意味を尋ねようとしない僕が、悪いのかも知れないけれど。

「……全く、惚れた方が負けとは、この事だな。」
 大袈裟とも思えるぐらいに深い溜め息を零して、御島は苦笑した。
 彼を困らせてしまったのだろうかと考えたけれど、他の人とはもうしないと言ってくれた言葉が、あまりにも嬉しくて―――――。
「御島さん、ごめんなさい。でも……すごく、嬉しいです」
 口元が緩むのを止められずに久し振りに笑って、母の事が一瞬頭に浮かんだけれど、僕は素直に喜んだ。
 御島は少し片眉を上げてから、直ぐに目を細めて柔らかく微笑んでくれた。
 目を惹かれるぐらいに魅力的なそれに、鼓動は速まって、体温が上がる。
 その上、御島が優しい手付きで、前髪を掻き上げるように僕の頭を緩やかに撫でて来たから、鼓動は更に速まった。

「おまえが喜んでくれれば、もうそれで構わねぇよ。
だが、俺に此処までさせておいて離れたりしたら……許さねぇからな。俺を裏切るなよ、鈴」

 優しさなんて全く無いような、鋭利さを含んだ声を、御島は放って来た。
 もう随分感じる事の無かった、身体が震えてしまいそうな程の――――あの獰猛な獣を感じさせるような、
 黒々しく威圧的な雰囲気まで感じて、身体が硬直した。
 僕が一緒に暮らし始めてからの御島は恐怖を感じさせないぐらいに、
 今まで以上にとても優しかったから、ここ最近はその黒々しい雰囲気もずっと感じなかったのに……。
 恐怖で徐々に体温は下がって、裏切るなと云った御島の言葉が、頭の中で何度も響いた。

 裏切るだなんて、離れるだなんて、そんな事が出来る訳ないじゃないか。
 だって僕は……僕は、御島のことが…………

 ――――――――――好きだから。


「………え…?」
 自分の考えに自分で驚いて、僕は思わず声を上げた。
 車を再び走らせ始めた御島は僕の声を耳にして、どうかしたのかと怪訝そうに尋ねて来たけれど、
 僕は弱々しくかぶりを振る事しか出来なかった。

 好き。そうだ、御島のことは好きだ。
 でも、さっき思った好きとは、普通の好きじゃない。

 衝撃的な自分の想いに緊張して、僕は少しだけ俯いた。
 今までずっと、御島に抱いている好きと云うものが、恋愛感情としての好きなのかどうか
 どんなに考えても分からなかったのに………こんな、こんなものなのだろうか。
 すとんと落ちるように、こんなにあっさりと、唐突に気付けるものなのだろうか。

 この感情は、憧憬でも無く、ましてや思慕でも無い。
 人に恋心を抱いた経験なんて無くて、それなのに僕は今、御島に対して抱いている感情を断言出来る。

 これは………これは間違い無く、恋だ。
 今まで答えが見付からなかったのが嘘のように
 本当にあっさりと、僕はそう自覚してしまった。







「み、御島さん……あの、初恋って、どんな感じでした?」
「どうしたんだ、急に…」
 自覚した感情に戸惑って、僕は相手の方を見ずに少し俯いたまま、震えた声で問いかけた。
 御島は少し驚いたような声を出して、だけど少し間を置いた上で、低い笑い声を立てた。
「俺の初恋は、気付いた時にはもう手遅れだったな、」
「て、手遅れって…何か有ったんですか、」
「相手が結婚しちまった。気付いた時には、失恋してたってヤツだ」
 そう云って、御島はもう一度笑い声を立てた。
 彼が傷付いた顔をしていないか、僕は無性に気になって顔を上げ、視線だけを運転席側へ向けた。
 だけど前を向いている御島の、その横顔を見る限り、哀傷の色は伺えない。

「……御島さんでも、失恋したりするんですか」
「鈴、おまえ俺を何だと思っているんだ。俺は万能じゃねぇんだぞ、」
 可笑しそうに笑う御島をじっと見据えて、こんなに格好が良くて魅力的な御島でも
 恋が成就しない事も有るのだと云うことに、僕は少し驚いた。
「それで、どうして急にそんな事を訊く?」
「と、特に理由は有りません。ただ、気になっただけで…」
 御島の問いにとても焦ってしまった僕は、慌ててかぶりを振った。
 だけど云い終えた後に、どうして理由を言わなかったのかと、後悔した。

 ちゃんと言わなければ……僕が御島を好きなのだと云うことを、ちゃんと言わなければならない。
 これはとても大切な感情なのだと云うことが、不思議と理解出来たし
 それに何よりも、僕の事を好いてくれている御島にきちんと伝えたかった。
 けれど僕は告白をする、と云う現状にひどく緊張して、何と言おうかと考えている内に、どうしたら良いのか分からなくなる。

 ただ正直に、好きだと言えばいいのだろうか。
 それとも、御島の家に戻った時に、落ち着いてから云うべきだろうか。

 ……………どうすれば、いいんだろう。

 困り果てて途方に暮れていると、御島は車を何処かの駐車場に停めて、着いたぞと声を掛けてくれた。
 結構遠い所まで来たんだろうなと考えて車から降りて、けれど直ぐに僕は
 何処でどんな言葉を使って、告白をしようかと思い悩んでしまう。

「鈴、さっきから何を考え込んでやがる。何処か具合でも悪いのか、」
「い…いえ、そんな事は……、」
 無い、と云い掛けた僕の額に、御島の手がゆっくりと伸ばされて――――
 それを目にした瞬間、僕はその手から逃げるように後退った。
「おい、鈴……何だその反応は、」
 憮然とした御島の問いに僕は何も答えられず、何度かかぶりを振る。
 御島に触られるのが恥ずかしく、ひどく緊張して、どきどきする。
 どうしてか妙に御島を意識してしまって、鼓動は速まるし、顔がとても熱い。

「あ、あの…すみません、何でも無いんです」
 変に思われただろうかと不安になりながら言葉を返すと、御島は舌打ちを零して、唐突に僕の腕を掴んで来た。
 力強い手がしっかりと僕の腕を掴んでいて、御島に触れられている感触に、体温が急激に上がってゆくのを感じる。
「は、離して…み、しまさ…手を…」
 緊張し過ぎている所為か、上手く言葉が紡げない。
 振り払おうとしたけれど御島の力は強く、しっかりと腕を掴まれていて離れない。
 少し苛付いたように御島は行くぞと声を掛けて、強引に僕を歩かせた。
 鼓動が速まって御島の顔が見れなくて、俯こうとした僕は、店の門口の横にあった看板を目にして打ち驚いた。
 躊躇いがちに周囲を見回せば、見慣れた建物や風景が映る。
 頭の中に、母の顔が浮かんで消えた。

 此処は、とても良く知っている場所だ。
 家の近くにあるこの料亭を、母はとても好んでいて………幼い頃は僕を何度か連れて行ってくれたりもした。
 家から歩いて、十数分の所にあるこの料亭を―――――。
 呆然としている僕の腕を引きながら、御島は門口をくぐって奥へと続く石畳の道を通り、広い玄関へと足を進めた。
 母の姿を思い浮かべると息苦しささえ覚えて、込み上げて来る焦燥感を掻き消すように
 僕は一度だけ、きつく目を瞑った。








 庭の眺めが良い廊下を通って随分奥の、数寄屋造りの広いお座敷に案内されると、室内に居た一人の男に御島は声を掛けた。
 どうやら壁に掛けられていた掛け軸を眺めていたようで、壁の前に立っていたその人は、ゆっくりと振り向く。
「黒鐡、遅いじゃないか…待っている間、地酒を運ばせたくて仕方が無かった」
 御島の名前を親しそうに口にして、その人は笑った。
 僕はその人の口元しか見ていなかったから、眼は笑っているかどうか分からない。
 ただ声はとても明るかったし、不機嫌そうな雰囲気も感じられないから、待たされたことに憤慨しているようには思えなかった。
「昼から飲む医者が何処にいる。……鈴、座れ」
 御島は素っ気無い口調で相手に言葉を返して、僕を座椅子へと座らせてから自分も隣に胡坐を掻いて座った。
 遅れた事に対して謝罪すらしない御島に、相手は文句を口にする事も無い。
 御島が敬語を用いていないのは珍しいなと、僕はそんな事をぼんやりと考えて、
 この人とはとても親しい間柄なのかと思ったけれど、御島の口調には温かみも優しさも感じられなかった。

「ふーん、君が黒鐡の……聞いた通り、すごく美人だな。男に見えない、」
 テーブルを挟んだ向かい側の座椅子に腰を降ろしてから、その人は興味深げな口調で言葉を放って来た。

 男に見えない、とは……侮辱しているのだろうか。
 相手の言葉がとても失礼なものに思えて内心腹を立てていると、御島が僕の背を宥めるように撫でてくれた。
 その感触に熱が上がって、御島の手から逃れるように、身を捩る。

「黒鐡、お前いつもそんな風にセクハラしてるのか」
「何処をどう見たらそうなる、」
「相手が嫌がったら、セクハラだろ」
 どうやらこの人の目からは、僕はとても嫌がっているように見えたようで、
 僕はその事で御島が気を悪くしなかったかと不安になって、隣へ顔を向けた。
 眼に映った御島の横顔はひどく無表情で、普段の、僕の前では優しい筈の彼と比べるとまるで別人のように思える。




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