黒鐡......20



 冷たい印象すら覚えて目を逸らすと、御島の真向かいの男が何かを思い出したように、ああ、と声を上げた。
 そちらへ視線を向ければ、その人は相変わらず、口元に笑みを浮かべていた。
 それは不快感なんて全く感じさせないような、爽やかとも呼べるものだったけれど、僕は口元から上を見る事はやはり出来なかった。

 御島が相手なら顔も、眼だって見れるけれど………
 他人だと、やっぱり顔すらまともに見る事は出来無くて、人間嫌いな所は相変わらずなままだ。

「自己紹介がまだだった。俺が黒鐡の従兄弟の、六堂嶋逸深(はやみ)だ。宜しく、」
 テーブルの上に肘をついて頬杖をつき、その人は名乗ってから反対の手を僕に差し出して来た。
 握手をしたいのだろうけれど、生憎僕は人に触れるのが大嫌いだ。
 だから僕はその手に触れる事もせずに、浅く頭を下げた。
「相馬鈴です、初めまして。貴方が僕に会いたがっていると、お聞きしました」
 きちんと正座をして、背筋を伸ばしたままで言葉を返すと、相手は差し出していた手を引いて悩むように唸った。
「君はあれだね…何だか扱い難い子だね。俺は社交的な子が好きだから、君みたいな子は苦手だ」
「云っただろう、逸深(はやみ)。鈴は他人には懐かねぇと」
 懐かないなんて軽いものじゃない。素っ気無くて無愛想で、他人が大嫌いなのだ。
 そこまで考えて僕は不意に、六堂嶋と云う名を、以前も何処かで聞いた事が有るなと思った。
 けれど何処で耳にしたのかは曖昧で、直ぐに思い出せずに居ると
 廊下側から声を掛けた仲居が入って来て、運んで来た料理を丁寧にテーブルの上へ置いてゆく。
 それを終えると仲居は直ぐに退室し、僕は運ばれたお茶を口にして、その温かさに軽く息を吐いた。

「此処のね、豆腐料理が美味いんだよ。地鶏料理も中々いけるし…相馬君、地鶏は駄目かい?」
 御島にでは無く、僕に向けてあの人は親しげに話し掛けて来て、その上質問までして来た。
 地鶏と聞いて、母も此処の地鶏料理が気に入っていた事を思い出して、僕はまた母の事を考えて息苦しさに眉を寄せる。
「いえ、嫌いでは有りません」
 必要以上の事は話さずに短く答えるけれど、相手は別段気を悪くした様子も無く、口元に笑みを浮かべたまま軽く頷いた。
「…しかし、見れば見るほど美人だ。黒鐡が気に入るのも無理は無いな、」
 美人、と云われても褒められている気がしなくて、僕は不快感を得たけれど、決して表情には出さない。
 単調に、有り難う御座いますと言葉を返すと、隣の御島が逸深を馬鹿にするように鼻で笑った。
「顔も良いが…鈴の中身の方が可愛いぜ」
 臆面無く、いきなりそんな言葉を言われて、不意打ちを喰らったように顔が熱くなる。
 絶対に顔は紅くなっているだろうと考えて、居た堪れなくなった僕は、少しだけ俯いた。
「な、何を云っているんですか、御島さん」
「何だ鈴、照れてるのか」
「て…照れてなんか…っ」
 揶揄されて咄嗟に顔を上げると、ニヤニヤと笑っている御島が目に映って、ひどく恥ずかしく感じる。
 それでも必死で否定すると、御島は落ち着けと穏やかな口調で告げて、従兄弟が居る事なんて構わないように僕の頭を撫でて来た。
 人が居るんだから止めてくださいと口にして、僕は熱が上がるのを悟られまいと
 その手から逃れるように、直ぐに身体を少し引いた。

「相馬君は、黒鐡と付き合っているのか?」
 御島の手から逃れた矢先に唐突に尋ねられて、僕は何度か瞬きを繰り返す。
 僕に向けて伸ばしていた手を御島は引き、逸深の方へ顔を向けるが、その顔には僕に向けていた笑みは既に消えていた。
「今は俺の一方通行だ。俺と鈴は恋人同士でも何でもねぇよ、」
 素っ気無い御島の言葉に少し淋しくなって、この微妙な関係が嫌だったら
 早く御島に想いを告げれば良いだけなんだと、僕は自分に言い聞かせる。
 けれど、僕が御島を好きだと告げて、両想いと云うものになったとしても……恋人同士、と云うものになるのだろうか。
 それとも御島か僕が、付き合って欲しいとか口にするのだろうか。
 それはそれで、何だか変な事に思える気がして、僕は眉を寄せた。
「何かなぁ…お似合いなのに付き合ってないなんて、まどろこしくて嫌な気分になるな。」
 お似合い、と云う言葉に僕はひどく驚いて、箸を動かし始めた相手の動きを怪訝そうに眺めた。

 僕と御島が似合っているだなんて、この人は一体、何を言っているんだろう。
 御島は大人で、その上とても魅力的で格好がいいけれど、僕は成人もしていないから子供だし
 大人の魅力なんて何一つないのだから、似合っている筈が無い。
 それに、お似合いと云う言葉は男にじゃなく、もっと大人な美しい女性に向けて云う言葉では無いのかと考えてから、
 御島に似合う女性を頭に浮かべて気分が少しばかり沈んだ。

「鈴、調子でも悪いのか。さっきから、普段と様子が違う」
 思わず目を少し伏せると心配そうな声が聞こえて、僕はたどたどしく御島の方へ目を向けた。
 さっき、と云うのは多分、店に入る前に僕が御島の手から逃れようとした時の事だろう。
 僕だって自分でも変だと思うぐらいに、御島を意識してしまっていつもと違うし、御島の云う通り調子が悪いのかも知れない。
 だけど迷惑は掛けたくないから、僕は大丈夫ですと短く答えた。

「そうか…食欲が無いなら、無理に食う事はねぇからな。嫌いな物が有ったら言えよ、」
「黒鐡、ちょっとそれは甘やかしすぎなんじゃないか、」
 僕が御島に言葉を返す前に、あの人が口を挟んで来たけれど、御島は僕の方を向いたままで相手を見ようともしない。
「俺には、鈴が構ってくれって言っているように見えて、仕方ねぇんだよ」
「い、言ってません、そんな事っ」
 口元を緩めて笑った御島の言葉に僕が慌てて反論した瞬間、彼の懐から振動音が響いた。
 静かな室内ではその音が十分響いて、御島は懐から携帯を取り出すと、画面を眼にして眉を寄せた。
「電源ぐらい切っておけよ、」
 呆れた声が御島の真向かいから上がったけれど、御島は謝罪する事無く素早く立ち上がって
 僕を一瞥してから、何も告げずに足を進めて部屋から出て行ってしまった。
「あの様子だと、本家の当主様かな。六堂嶋(りくどうじま)家はね、黒鐡に依存しているから大変なんだよ」
 箸を一度置いてから男は溜め息を吐いて、それから僕の真向かいに移動して来る。

 六堂嶋、と云う名がもう一度出て、ようやく僕は思いだした。
 御島が人を殺したと知った……あの、寝室の外で聞いた会話の内容が、頭の中に浮かぶ。
 御島とあの時言葉を交わしていた相手の声は、この人の声にとても近い気がした。
「あ、あの、六堂嶋って、何なんです?黒鐡さんの姓は、御島じゃないんですか?」
「六堂嶋はね、自慢する訳じゃないんだが…実業界では名の通った名家だよ」
 逸深は大した事は無いと云うように、あっさりと答えてから、一度お茶に口を付けた。
 それから軽く息を吐いて、美味いなと呟いてから、言葉を続かせる。
「御島は、黒鐡の母方の姓なんだ。あいつ、六堂嶋を嫌っているから、そっちの姓を使っているんだよ。
でも相馬君、あいつの事苗字で呼んでいるのか…下の名前では呼ばないのかい?」

 下の名前、と聞いて、僕は少しだけ俯いてしまう。
 呼ぶ時はあの……とてもとても恥ずかしい事をする時だけだ。
 御島はあの時だけは僕に名前を呼ぶようにと云うし、僕もそれに逆らう事無く、云われた通りに名を口にする。
 けれどそんな事をこの人に言える筈も無く、僕は相手の喉元へ視線を向けて、口を開いた。
「稀に、呼ぶ事は有ります。でも、何故そんな事を訊くんですか、」
 少し控え目に尋ねると、相手はどうしてか笑い出した。
 それでも決して嫌な笑い方じゃないし、見下されている感じもしないから僕は不快感も得ず、ただ戸惑う事しか出来なかった。
「稀にか…惚れた相手に稀にしか名を呼んで貰えないなんて、黒鐡も報われ無いな。ああ、でも苗字で呼ぶのも初々しくて良いね」
「初々しいって…、」
 何処ら辺に初々しさなんて感じたりするのか、良く分からない。
 不可解な発言に眉を寄せると、相手はテーブルの上に肘を乗せて身を乗り出すように、少しだけ顔を近付けて来た。
「正直、俺はさっきからずっと、自分の目を疑っているよ。黒鐡が誰かに優しくしている姿なんて、見た事が無いからな。
それなのに、あいつは君にとても優しく接しているし……相馬君だって黒鐡が相手だと、表情がとても豊かになっている」
「え…っ」
 普段から表情を崩そうとしない僕は、御島の前では自然と表情が崩れる。
 その事は自分でも分かっていたから別に驚く事は無いけれど、あの優しい御島が
 優しくない人間だとでも云うような物言いに、僕は少しだけ驚きの声を上げてしまった。
「あの…御島さんは、どんな方なんですか、」
「難しい質問だね。優しくない人間だってのは、断言出来る。あいつは惚れても、優しくなんて絶対にしない奴だ。
本性を見せないし、俺にも良く分からないけど………平気な顔で他人を利用して、躊躇い無く裏切るよ。」

 御島を悪く言われた事に僕はいささか腹を立て、眉を寄せてあからさまに不機嫌な表情を浮かべてしまう。
 すると真向かいに居た人物は、逆に愉しそうな笑みを浮かべた。
「俺でも君の表情を崩す事が出来るんだな、何だか安心したよ。
なあ相馬君、見た所、君は黒鐡の事を嫌いじゃないみたいだし……
あいつの事を少しでも好きで居てくれるなら、付き合ってみたらどうかな?黒鐡は絶対君を、幸せにしてくれると思うよ」

 幸せ、と聞いて、御島の事についての会話の筈なのに、僕の頭の中には母の顔が浮かんだ。
 僕は母の幸せを気にしているけれど、自分の幸せなんて考えた事も無い。
 御島も以前、僕を幸せにしてやると言ったけれど、僕には幸せと云う感情が、どんなものなのか分からない。
「逸深、強制するな。鈴が困ってんだろ、」
 いきなり耳に入って来た声音は低く、とても不機嫌そうに感じられた。
 慌ててそちらに顔を向けると、いつの間に戻って来ていたのか、出入り口の襖の前に御島が立っていた。
 苛立ったように眉を顰めながら此方に近付き、御島は僕の隣へと腰を下ろす。
 真向かいの逸深は何も告げずに席を移動して、再び御島の正面へ座った。
「早いな。当主様が相手なら、三十分は話し込む筈だろう、」
「てめぇと鈴を、長い間二人だけにさせておけねぇからな」
 剣呑な雰囲気が御島から漂って、彼がひどく苛付いているのが理解出来た僕は、
 直ぐに御島から目を逸らし、不意に正面の硝子障子へと目を向けた。

 庭の風景が硝子越しに見えて、気が重くなる。
 殆ど紅葉している庭の木々を眺めていると、母との思い出ばかりが頭の中を巡った。


 この店を出て、少し歩けば家に辿り着ける。
 母は、家に居るだろうか。
 ………幸せに、暮らしているだろうか。

 いつの間にか母の事を考えている事に気付いて、僕は逃げるように庭から目を背けた。
 そうだ。此処から少し歩けば、母に会えるのだ。母の様子を、見る事だって出来る。
 その事実が激しく僕を駆り立てて、逸深と言葉を交わしている御島を、遠慮がちに見遣った。
 御島は直ぐに僕の視線に気付いて、会話中なのに僕の方へ顔を向けて……
 逸深と言葉を交わしていた時は無表情だったのに、今は口元に笑みを浮かべている。
「どうした、鈴」
 優しい声音で尋ねられて、胸がひどく熱くなった。
 ちゃんと御島を見る事が出来なくて、僕は少し目線を逸らしてから薄く唇を開く。
「あ、あの……お手洗いに、行って来ても良いですか、」
 声が震えないようにと祈りながら、僕は嘘を吐いた。
 直ぐに答えは返って来なくて、沈黙が長すぎるように思えて御島の方へ視線を戻すと、あの鋭い双眸と目が合う。
 心臓を鷲掴みされたようにどきっとして、僕はごくりと唾を呑み込んだ。


 ―――――大丈夫だ。
 母の姿を見たら、直ぐに戻ってくれば良いだけの話なのだから……
 だから僕は、御島から離れる訳じゃないし、彼を裏切る訳でも無い。
 ひどく緊張する心を和らげる為に、そんな事を考えながら答えを待つと、御島は手洗い場の位置を分かり易く教えてくれた。
 礼を口にして立ち上がると、足が少し震えているのが自分でも分かって
 悟られまいと直ぐに足を進めて、僕は部屋の出入り口の方へと向かう。
「鈴、」
 襖を開けようとした僕の背に声が掛かって、内心ひどく驚いた。
 恐る恐る振り返ると、御島が……あの力強く、鋭い双眸が此方を見据えている。

「……付いて行ってやろうか、」
「け、結構ですっ、僕はそこまで子供じゃ有りませんっ」
 ニヤニヤと笑っている御島の言葉がとても恥ずかしくて、そう返してから直ぐに襖を開け、半ば飛び出すように部屋を出た。
 音を立てまいと気を配りながら襖を閉めて、足早にその場を離れる。
 庭が良く見える廊下で一度足を止め、振り返るけれど、御島が付いて来る様子は無い。
 僕をあまり一人にさせる事は無いのに、彼にしては珍しく
 やけにあっさりと僕を離してくれたな…と、それだけが少しだけ心に引っ掛かった。
 前を向き直して庭の方へ視線だけを向けながら、僕は御島の事を思い浮かべる。

 母がちゃんと幸せになれている事を確認出来たら、その時は御島に本当の事を………
 告白をしよう、と心に決めて、僕は足早に廊下を進んだ。








 店の人に声を掛けられた時は、心臓が止まるかと思うぐらい驚いたけれど
 僕は何とか店を出て、周囲には人気も家屋も無い、孤立したあの家の前へ辿り着いた。
 もしかすると、声を掛けて来た店の人は、僕が先に出て行ってしまった事を御島に教えてしまったかも知れない。
 でも僕はちゃんと御島の元に戻るつもりだし、裏切る気なんて無いのだから、責められる謂れは無い。
 だけど……もし、嘘を吐いて勝手に店を抜け出してしまった僕を、御島が嫌いになったらどうしよう。
 御島の姿を思い浮かべると、恐怖と焦燥感をひどく感じて、身体が震えた。
 恐いのは御島の事じゃなくて、彼に嫌われてしまうんじゃないかと云う事が………何よりも、恐い。
 僕はいつからこんなに弱くなったのだろう。
 人に嫌われる事なんてどうでも良かったし、どう思われようと気にしない程、以前の僕は強かった筈だ。

 ―――――――誰かを好きになると云う事は、弱くなると云う事なのだろうか。

 そう考えて、損だなと呟いて少しだけ笑って、僕は門をくぐって庭を通り、玄関へと突き進んだ。
 暫く見なかった所為か、自分の家なのに、扉を開けるのが躊躇われる。
 まるで他人の家の扉を勝手に開けるように思えて、僕は暫くの間その場で少し、まごついた。
 けれどあまり時間を潰している暇なんて無いのだと、早く戻らなければ逸深も居るのだから
 御島に恥を掻かせてしまうのでは無いかと考えて、その考えに促されるように僕は扉を開けた。
 鍵が掛かっていない事に、相変わらず無用心だと思いながら、家の中へ足を踏み入れる。
「…リン?」
 玄関で靴を脱ごうと上体を屈めた僕の耳に、懐かしい呼び声が響く。
 靴を脱ぐのを止めて咄嗟に顔を上げると、少し離れた先の廊下で女性が――――母が、此方を伺うようにして立っていた。
「リン、本当にリンなの、」
 騒がしい足音を立てて僕の前へと近付いて、彼女は信じられないものを見ているように目を見開いて、此方をまじまじと見ている。
「母さん、あの…僕、」
 躊躇いがちに言葉を掛けようとすると、母は不意に踵を返して、僕の前から去って行ってしまった。
 半ば呆然と母の背を見送って、僕は緩やかに目を伏せる。
 久し振りに会えた事を母が喜んでくれる筈も無いし、ましてや抱擁なんてしてくれる筈も無い。
 何を期待していたんだろうと思って苦笑を浮かべ、僕は踵を返した。

 母は………大丈夫だ。
 僕が居なくたって、寂しくも何とも無いだろうし。
 目に見えて幸せって訳でも無いけれど、兼原が居るから、兼原が母を幸せにしてくれるから……
 僕では、母を幸せにする事は出来無いのだから―――――。

「リン、待ちなさいっ」
 扉に手を掛けた途端、後ろから叫ぶような声が掛かって、僕は振り返る。
 母が形相凄まじく、急いた足取りで再び僕の方へと近付いて来た。

 その迫力に何事かと驚く僕の目に映ったのは…………母の片手に握られた、鈍く光る包丁だった。








「リン、リン…あんた、あんたの所為で兼原と駄目になったわ、」
 母の震えた声が響いて、だけど僕はその手に握られた包丁から、目を逸らせずにいた。
 握っている手も震えていて、それを見ているとひどく心が冷えてゆくのが分かる。
「……どう云う、事」
「兼原から聞いたわよ、御島にやられたって……あんたが御島に頼んで、兼原を痛めつけたって。いつの間に御島を誑し込んだのよ、」
「誑し込んだって、何を言って……あの人が僕の首を絞めたから、御島さんは…」
「あんたが居なくなってようやく楽になれると思ったのよ。それなのに……あんたはどれだけ、私の幸せを壊せば気が済むのっ」
 僕の話なんて全く聞かず、母は叫ぶように言って、そして涙を零した。
 俯いて、あんたの所為で幸せになれないと何度も繰り返して、母は泣き続けて…………

 ――――――僕は、母を、泣かせるぐらいに苦しめていたのか。

「母さん…、」
 思わず母の方へ、靴を履いている事も忘れて近付こうとすると、彼女はいきなり顔を上げて、涙で濡れた瞳で僕を睨んだ。
 もう睨んだとしか言いようの無いぐらいに、それはとてもきつい視線で……息が、詰まりそうだった。
 後退ると、母が一歩足を進めて来て、あの鈍く光る凶器を僕に向けて来る。
 僕を嫌悪し、存在自体が不必要だと告げているあの瞳は―――子供の頃、色んな人達から向けられていた視線だ。

 ――――そうだ。だから僕は、人が嫌いになった。
 他人の目が……目を視ると必ず悪意が見えたから、僕は視なくなった。
 母の目にすらそれが視えていたから、彼女の顔は見れても、目を視ながら会話なんて出来なかったんだ。

 ………こんな状況で、人を嫌いになった理由を、思い出したくなんて無かった。

「母さん……」
 彼女はずっと、僕が幼い頃から、僕を嫌っていたのだろうか。
 そう思って相手の目を見つめていると、どうしてか泣きそうになって
 心が苦しくて、搾り出すような声で母を呼んだ。

「あんた男でしょうっ、男の癖にどうして…何で男のあんたに御島を取られるのよっ、
どうしてよ、どうして男は、あんたの方が美人だと云うのよ……兼原にまで逃げられて……あんた、あんたの所為で幸せになれないじゃないっ」
 悲痛な声で彼女はそう叫んで、その顔は怒りで歪んでいて、いつもの美しい顔は何処にも無かった。
 美しい分、余計に、歪んだ顔は醜くて………母を醜いと思ってしまう自分に不快感を抱いた瞬間、
 彼女は足を進めて来たから、僕は反射的に扉を開けて外へと逃げ出した。

 裸足なのに僕を追って庭へ出て、足が汚れる事なんて気にしていないように
 僕を目掛けて突き進んでいる姿が、恐いと思うよりも……………ひどく、悲しかった。


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