黒鐡......21
「母さんは、僕を……殺したいの?僕は、もう、要らない?」
立ち止まって問うと、彼女も少し距離を置いた位置で足を止めて
あの凶器を両手で持ち出して……その手は、相変わらず震えていた。
「――――要らないわよ、あんたなんか」
鋭い言葉が心に突き刺さって、痛みさえ覚えた。
だけど僕はそれを誤魔化すように、目を伏せる。
―――――大丈夫だ。
何を言われたって、僕は傷付かない。
僕が居なくなる事で母が幸せになれるなら、母がそれを望むのなら……………大丈夫だ。
何処を刺されるのか、どれぐらい痛いのか、あまり時間を掛けずに母が望む通りに僕は―――――。
そう考えた瞬間、御島の姿が頭に浮かんで、死にたくは無いと強く思った。
だけど母の事を考えたら、僕は逃げる事なんて出来無い。
自棄になっているのかも知れないと思って苦笑が浮かんで
母が凶器を振り上げたのを目にして、僕は諦めるように目を瞑った。
「鈴っ」
名を呼ばれて、幻聴かと思った瞬間、僕はきつく抱き締められていた。
息が詰まるぐらいに強く抱き締められて、それが誰なのか理解出来て、ゆっくりと瞼を開ける。
「……み、しまさ…」
「鈴、自棄になるんじゃねぇよ…、」
いつものように御島は優しい声音で言って、だけど表情は苦痛の色を浮かべていて………
嫌な予感が過ぎって、恐る恐る顔をずらして、僕を抱き締めている御島の腕を見遣った。
「流石に、痛ぇな…、」
呻くように呟いた御島の言葉と、彼の腕から血が流れ出ているのを目にして、驚愕する。
眉を顰めている御島は額に汗を浮かばせて、苛立ったように舌打ちを零したものだから、僕は言葉も出せずに硬直した。
黒いスーツに、あまり目立たない染みがじわじわと広がってゆくのが見えて、
出血が多いんじゃないかと、それだけは考える事が出来て、僕は母に向けて口を開いた。
「母さん、母さんっ、きゅ…救急車を、病院にっ、救急車を呼んでっ」
僕は母に向けて叫んだけれど、地面に凶器を落とした彼女は
口元を両手で抑えて震えているだけで、僕の声なんて耳に入っているのかすら分からない。
「母さんっ、早くしないと御島さんが…っ」
「落ち着け、鈴。そんなもの呼んだら、おまえの母親が捕まるだろう、」
苦痛の色を浮かべていながらも、低く通る声で静かに言葉を掛けられ、僕ははっとした。
尤もな言葉に頷こうとするけれど、だったらどうすれば良いのかと考える僕の頭を、御島は優しく撫でてくれる。
御島の腕に広がる染みがどんどん広がって、血が滴ってゆくのを目にすると
僕の身体はどうしようも無く震えて、足が凍りついたように動かない。
「鈴…家を出た先に、俺の車が停めてある。逸深が乗っているから、あいつを呼んで来てくれ」
苦痛なんて感じさせないような柔らかい声音が耳に響くけれど、今の御島はどうしてか――――
あの圧倒的な存在感を持つ筈の彼は、今は、ひどく儚く見えた。
唇を噛み締めて頷いて、僕は動かない足を叱咤し、飛び出すように走り出した。
急いで、必死で走っている筈なのに家の門が遠くて、足が縺れそうになる。
転ばないようにと気を引き締めて門をくぐり、視界に入った車を目指して、駆けた。
「逸深さん、助けて…、御島さんを助けてっ」
もう何年も走る事なんてしなかった僕は、走りながらそう叫んだ。
聞こえた自分の声がひどく泣きそうなものに思えて、視界がぼやける。
「黒鐡さんが、死んでしまう…っ」
涙が零れて、だけど僕はそれを気にしている余裕も無く、走りながらもう一度叫んだ。
―――――――――僕は、あの人を、失いたくなんか無い。
逸深が院長を務めている病院に運ばれた御島は、腕を十三針縫って、数日ほど大事を取って入院する事になった。
僕は御島に会う事を少し躊躇ってしまい、病室の前を何度もうろついていると
中々入れずにいた部屋の扉が開いて、そこから出て来た人に名を呼ばれた。
それが逸深だと分かると、僕は相手の喉元へ視線を向ける。
僕が病室に入るのを躊躇っているのが分かったのか、後遺症が残る心配は無いから安心していい、と逸深は声を掛けてくれた。
「あ、あの……母は、」
「黒鐡に怪我をさせた事、よっぽどショックだったんだろうな…かなり消沈していた。刃物は俺が預かって、家に帰させたよ」
「そうですか…色々、すみませんでした」
頭を下げて謝罪を零すと、逸深は気にしなくていい、と言ってくれる。
僕は母の事を聞かされても、彼女を心配する気にはもうなれなかった。
御島に怪我を負わせた事が、母を想う僕の心を不思議なくらい、ひどく冷めさせていたのだ。
「黒鐡だったから、良かったんだ」
「え…?」
聞き取り難いぐらいに小さな声で逸深が呟いて、頭を上げた僕は、無意識に彼の顔へ視線を向けた。
その顔は眉を寄せて怒っているように見えて、僕は直ぐに視線を逸らす。
「君があんなもので刺されたら、危なかった。もっと自分を大事にした方がいい、」
厳しい口調で言葉を掛けられて、僕はもう一度、すみませんと謝罪を口にした。
僕はあの時、母が幸せになれるならそれでも良いと自棄になっていたから、自分の身を大事にしようなんて思えなかった。
「あまり煩く云うと、黒鐡に怒られそうだな」
そう云ってから逸深は、僕を促すようにして病室のドアを開けてくれる。
すみませんと三度目の謝罪を口にして、僕は御島の居る個室へと足を運んだ。
広い室内はソファーや冷蔵庫なんかも有って、僕が今まで入院した事のある病室とは全く造りも違っていた。
「御島さん……あの、ごめんなさい、」
ベッドの上に居た御島を目にするなり、少し距離が有る所で足を止めて、僕は謝罪を口にした。
本来なら僕が刺されるべきだった筈なのに、御島が負わなくてもいい怪我を負った事が、ひどく申し訳なく思えた。
すると御島は何も云わずに、ベッドの上で軽く手招きして来たものだから、僕は重い足取りでベッド脇へと近付く。
「鈴、おまえが死んだら……俺は狂っちまう、」
上体だけを起こしていた御島は、僕の頬に左手を当てて、不意にそんな言葉を口にした。
掛けられた言葉に何度か瞬きを繰り返して、込み上げて来そうなものを抑え込むように僕は目を伏せた。
「……御島さん、どうして…あの時、僕が自棄になっているって分かったんですか、」
「おまえが刺されたら、あの女が捕まるだろう。あの女の事を想っているおまえなら、
そう考えて説得するか逃げるか、兎に角大人しく刺されるような真似はしない筈だぜ」
――――どうして。
どうして御島は、そこまで僕の事を理解ってくれるんだろう。
抑え込んだものがまた再び込み上げて来て、思わず目を伏せると、御島はあの優しい手付きで頭を撫でてくれた。
その感触に胸が熱くなって、云いたい事は吐けばいいと、以前御島が口にしてくれた言葉が不意に頭に浮かぶ。
「……僕、僕が……」
震えた声が零れ落ちたけれど、僕は言葉を続かせる事は出来なかった。
他人に迷惑を掛けて来た僕だ。生きるだけで、迷惑な存在だ。
そんな僕が、云いたい事を吐いたりなんかしたら、罰当たりなんじゃないだろうか。
何も云えずに黙り込んでいると、御島は僕の身体を片腕で抱いて、易々とベッド上へあがらせて膝の上へ乗せてくれた。
「鈴、此処には俺とおまえだけだ。何を云っても、おまえを責める奴は此処には居ないんだぜ」
あやすように背を撫でてくれる感触が心地好くて、
僕の胸中を理解しているような御島の言葉に
僕は少しだけ、泣きそうになった。
「僕がいると……幸せに、……僕がいると幸せになれないと、母さんが云って…」
抑えられずに言葉を放ったけれど、僕は泣かない。
僕の所為で母が苦労を背負って来た事は自覚していたし、あまり母に好かれてはいないって事も分かっていた。
だから、泣いたりする事なんてしないし、傷付くことなんて無い。
ただ――――胸が、ひどく重くて、苦しかった。
「鈴…幸せになれない事を、他人の所為にするのは違うだろう」
御島が静かに、優しい声音でそう云ってくれた瞬間、僕は目を見開いた。
徐々に視界がぼやけて、喉奥が締め付けるように痛んで、抑え切れずに涙が零れる。
「…そう、そうだよ…それを、それだけは、僕、僕の所為に……して欲しく、なかった…」
零れた涙を手で拭いながら言葉を吐くと、御島は怪我をしている方の手を動かして、頬を伝う雫を指で拭ってくれた。
その事にはっとして、僕は慌てて顔を後ろへ引く。
「御島さん、動かしたら…傷が、」
「構うかよ。そんな事より、おまえの方が大事だ。」
御島はそう云うと、僕の頭を優しい手付きで撫でてくれた。
冷たい筈の彼の手が、温かく感じるのはどうしてだろうと考えて、僕はゆっくりとかぶりを振る。
僕からして見れば御島の傷の方が大事だと、だから安静にしてくださいと伝える為に
口を開き掛けた瞬間、彼が顔を近付けて唇を重ねて来た。
驚く間も無く、少し冷たいその感触は直ぐに離れて、御島は口元を緩めて笑った。
「云いたい事は全部吐けばいい。俺はおまえの言葉になら、幾らでも耳を貸してやるぜ」
「そんな……甘やかし過ぎです、」
「好きな奴を甘やかして、何が悪い。いいから、云いたい事は幾らでも言え。それが出来なけりゃ、気が済むまで泣けばいい」
優しい声色で囁かれて、御島の胸に顔を付けさせられる。
彼の温かさを傍で感じて、もうどうしようも無いぐらいに何かが込み上げて来て、僕はまた涙を零した。
「幸せを……母さんの幸せを、ずっと願って……それなのに僕の所為だって、僕は要らないって……
だからもう、どうでも良くなって、自棄になって…」
抑え切れずに言葉を吐いて、僕は泣きやむ事も出来ずに、目をきつく瞑る。
「…っ…御島さん……僕、僕…ごめんなさい…、怪我を…僕が自棄にならずに、逃げれば……ごめんなさい、」
「鈴、俺はおまえに謝って欲しくて庇った訳じゃねぇんだ。だから謝らなくてもいい、」
優しい物言いに胸の内が少し軽くなって、御島の言葉がひどく胸に沁みた。
胸が熱くなって、僕はしゃくり上げながら、御島の服の胸元を強く握った。
僕は今まで、御島の前でもう何度泣いたのだろう。
だけど御島は泣く僕を責めなかったし、呆れる事も無くて――――――いつだって御島は、優しくて温かい。
「く、黒鐡さ…僕、黒鐡さんは…温かいと思う……冷たくなんか…っ、鉄なんかじゃ…」
嗚咽混じりに告げると、御島は僕の言葉を否定せずに、頭を撫でてくれる。
その感触に涙が次から零れて、止まらない。
御島はどうしてこんなにも、優しくて温かいんだろう。
どうして、僕の欲しい言葉をくれて、僕の事を理解してくれるんだろう。
泣きながら疑問を頭に浮かべた僕は、御島の事を、更に好きになっている自分に気付いた。
想いと云うものは深くも浅くもなるものなんだと…………
好きと云うものは、限りが無いものなのかと、ぼんやりと考えながら
僕は無意識に御島の胸へ、顔を押し付けた。
僕は、御島の事が―――――
…………もうどうしようも無いぐらいに、好きで好きで、堪らない。
沢山泣いた後は目も頭も重くて、何よりも倦怠感が強かった。
泣き過ぎると瞼が腫れて重くなると聞いた事が有るけれど、此れがそうなのだろうか。
けれど怠いのとは逆に気分はすっきりしていて、心が大分軽くなった気がする。
「泣く事は心に良いらしいぜ。なあ、気分がすっきりしただろう、おまえはもっと泣いた方がいい」
背中をゆっくりと撫でられて僕は心地好さに目を閉じ、相手の身体に寄り掛かったまま、掛けられた言葉に少しだけ頷いた。
「……鈴、もしおまえがあの女とどうしても一緒に居たいなら…
俺があの女に頭を下げて頼み込んでやってもいいぜ。おまえの為なら、頭ぐらい幾らでも下げてやる」
優しい声音が耳の奥に響いて、衝撃的なその言葉に思わず顔を上げて、御島を見つめる。
彼は僕の顔を見るなり、ひどい顔だと笑って、重い瞼に優しく口付けてくれた。
その感触と、御島は僕の為にそこまでしてくれるのだと云う事が合わさって、胸の内が熱くなる。
「いいえ…もう、良いんです」
少しだけ目を伏せたけれど、自分の声は思ったよりも明瞭で、その事に安堵しながら言葉を続かせた。
「母は僕が居ない方がいいんだと、十分解りましたから」
凶器を手にした母の姿を思い浮かべて、僕は少しだけ口元を緩めて笑った。
すると御島はどうしてか舌打ちを零したけれど、僕の背を撫でてくれる手付きは、相変わらず優しい。
「阿呆、そんな淋しそうに笑うんじゃねぇよ。これでおまえはあの女に縛られずに、自分の幸せを素直に得りゃあ良いだろう」
「自分の、幸せ……、」
掛けられた言葉を口にしながら、僕は軽く目を見開いた。
母の事も気にせずに、自分の幸せを得る。
……そんな事、考えもしなかった。
そんな事をしても良いのかと考えて、不意に、幸せと云う感情はどんなものなのかと訝る。
――――僕は、その感情が、良く分からない。
「僕は、幸せと云うものが分かりません…」
「自分が抱いた感情にその言葉が当てはまったら、もうそれは幸せって事だろう。喜びだって、幸せに近い感情だと思うぜ、」
低く通る声を放つと同時に、御島は僕の背から手を離して、今度は僕の頭を緩やかに撫でてくれた。
彼の手は冷たい筈なのに、撫でられる感触はどうしてか…………ひどく温かくて、心地が好い。
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