黒鐡......24
「……黒鐡、何?今の、」
「何って、キスですよ」
「ふざけるなよ。誰が頬にしろって言った?キスは普通、唇だろ」
耳に入って来た会話に僕はそっと目を開けたけれど、顔は中々上げられずに居た。
「申し訳有りません、当主様。最近、男より女の方が好ましいんです。やはり男の唇を奪うより、女の方が全然好い」
「嗜好が変わったのか、」
「ええ。男とセックスするのも、最近は考えただけで吐き気がします」
ゆっくりと顔を上げた僕は、臆面無く言葉を放った御島へ視線を注いだ。
男と……と云う事は、昨夜僕に触れている間、吐き気を堪えていたのだろうか。
そんな様子なんて全く感じなかったし、つい先ほどだって御島は僕を抱きたくて堪らない、と口にしたのに。
御島のどの言葉を信じれば良いのか、分からなくなっていると
明らかに不機嫌そうな表情を浮かべたあの人が、御島の膝の上から降りたのが目に映った。
「……俺はそこらの女より、美人だ。」
「仰る通り、当主様は美しい。けれど、男の醜いアレが付いていては…」
云い掛けた御島の声は、頬を思い切り叩かれた音によって、掻き消された。
頬を叩かれた御島は怒り出す気配も無く、あの鋭い双眸を少し細めて、目の前の相手を眺める。
「口の利き方に気を付けろよ、黒鐡。お前は俺の物なんだ…物が、俺に無礼な口を利くなっ」
怒りからか、肩を震わせているその人に向けて、御島はうっすらと微笑みながら、申し訳有りませんと頭を下げた。
けれど口調も態度も、何もかもが無礼なものに思えて、反省している様子なんて皆無に等しい。
呆気に取られていると、逸深が急に僕の腕を引いた。
「当主様、俺達はそろそろ失礼させて頂きます。彼に、あまり刺激的な光景は見せたく有りませんから」
「随分大切にしているんだな、珍しい」
あの人は吐き捨てるように言葉を返したけれど、逸深はその言葉に軽く頭を下げ
本をソファーの上へ置いてから強い力で腕を引いて、僕を病室の外へと連れ出した。
触れられる事への嫌悪感はそれほど強く無かったけれど、
引っ張られるようにして強引に歩かされるのは、不快だった。
病室から大分離れた、自販機やソファーが並んでいる休憩室まで進んで、立ち止まった逸深はようやく腕を離してくれた。
「は、逸深さん…あの、一体…何がどうなって、」
「ごめんな、相馬君。当主様、黒鐡をひどく気に入っているから……黒鐡が君に惚れているんだと知ったら、君を傷付けかねないからさ」
逸深に促されてソファーに座らされ、自販機に金を入れた彼は少し困ったように説明してくれた。
「相馬君、何が飲みたい?珈琲より、ジュースかな?お茶も有るよ」
「い、いえ…何も要りません、」
「不快な想いをさせたお詫びに、奢らせてくれよ。」
頼み込むような口調に強く拒否出来ず、僕はまるで逸深のペースに乗せられるように、珈琲を頼んだ。
温かい方が良いなとぼんやり考えていたら、差し出されたカップの中の珈琲は、望み通りに湯気を立てていた。
「何となく、相馬君は温かい方が好きそうだと思ってね」
そう云って笑った逸深に僕はどうしてか落ち着かない気持ちになって、素っ気無く礼の言葉を返してカップに口を付けた。
「御島さんの事、俺の物って…言ってましたよね、」
珈琲の温かさに息を吐いて、思い出した言葉を口にすると、逸深は近くのソファーへと腰を降ろした。
「当主様、昔はああじゃ無かったんだ。三年前に事故に遭って以来、少し変わってしまってね。
その上、去年に前の当主様…つまり、父親を亡くしてから余計に変わって……
今じゃ、六堂嶋の人間は全て自分の物だと云う考えまで持つようになった、」
他人を物扱いすると云うのは、僕はあまり好きじゃない。
それに、僕の好きな人を――――御島を、物扱いされた事は、思い出すととても厭な気分になる。
「幸い、俺は本家から距離を置いている人間だから干渉はあまりされないけれど、黒鐡は……当主様の兄だからな」
「兄…?」
「まあ、兄と云っても、母親が違うから似ていない。
それに黒鐡は妾の子だから、先に産まれたとしても六堂嶋の当主にはなれなかったんだ」
あの御島と僕の間に、共通点なんて一つも無いと思っていたから………妾の子、と聞いて僕はひどく驚いた。
驚きで何も言葉を返せずにいると、この事は内緒だよ、と逸深は軽く告げた。
それから言い難そうに少しだけ唸って、逸深はうっすらと口を開く。
「当主様は黒鐡にとても執着しているから、黒鐡と関係を持った相手を
今まで色んな手を使って消して行った。……殺され掛けた人も、居たよ」
深い溜め息と共に紡がれた言葉に、僕は少しだけ目を見開いた。
関係を持っただけで、殺され掛けた人が居るなんて……そんな事、有り得るのだろうか。
何だか遠い世界の事のようであまり実感が湧かず、執着と云う言葉が頭の中で響いて
御島にキスをして欲しい、とせがんだあの人の姿が浮かんで消えた。
「あの人も……その、逸深さんと同じで…ゲイ、なんですか、」
「恥ずかしい話、六堂嶋の人間は不毛な奴らが結構居てね。血筋、なのかな。
当主様は黒鐡に影響されてそっちの道に走った人だから、俺みたいな生粋のゲイって訳じゃないよ」
厭な予感が過ぎって、それ以上訊くのを躊躇った僕に、逸深は苦笑して見せた。
「黒鐡と当主様の事は過去の事だから、気にしない方がいい」
「……御島さんは、あの人を抱いた事が有るんですか」
折角逸深が気を利かせて、その話題を終えようとしていたのに、僕は少し自棄になって尋ねてしまった。
逸深は言い難そうに何度か口を開いては閉じてを繰り返して、やがて浅く頷いた。
「当主様は、六堂嶋の不毛な奴らには大抵、抱かれているからな。」
「逸深さんも、抱いたんですか、」
思わず尋ねると、逸深は苦々しそうに笑って、過去の事だよと素っ気無く返した。
好きな相手以外に抱かれる、と云う行為は、僕には未知の領域だ。
例え相手が大好きな御島だとしても、僕は抱かれると考えると恐くて堪らないのに………あの人は、恐くないんだろうか。
ふとそう考えるけれど、他人の事を上手く理解出来ない僕が、どうこう考えたって
僕とは全く違う人間の……他人の気持ちなんて、分かる筈も無いのだと思いなおして、直ぐに考える事を放棄した。
「拙い…もうこんな時間か。ごめんな、相馬君。会議が始まるから、そろそろ行かないと…」
腕時計に目を通した逸深は慌てたようにソファーから腰を上げて、僕に向けて謝罪をもう一度口にした。
構わないと云ったようにかぶりを振ると、逸深は唐突に手を伸ばして僕の頭をほんの少しだけ撫でてから、直ぐに手を離す。
「思った通り、触り心地が良いな。黒鐡を助けてくれって泣きながら叫んでた君、不謹慎だが、今思うとすごく可愛かったよ。
…っと、この事は黒鐡には内緒にしててくれ。殺される、」
咄嗟に目にした逸深の顔から―――愉しそうに目を細めて冗談っぽく笑うその顔から、僕は目を離せなかった。
唐突な事態にただ呆然として、急ぎ足で去ってゆく逸深の姿が見えなくなって、ようやく僕ははっとした。
ほんの一瞬のように思えたけれど……僕は、御島以外の人に頭を撫でられた。
あまりにも短い時間だったから、心地が好いとか、人に触れられる事に対しての
嫌悪感とかは抱かなかったけれど、もう少し長い間撫でられていたら、僕はどうなっていたんだろう。
僕はもしかして………人に優しくされる事に、弱いのだろうか。
目の前のテーブルの上へとカップを置いて、眉を寄せながら考え込むと、廊下側から足音が響いた。
逸深が戻って来たのかと考えて、咄嗟に視線を移した僕の目に見えたのは―――――
あの、ひどく綺麗な顔をした、六堂嶋家の当主の姿だった。
「ねぇ、オマエ…名前は何て云うんだ?」
その人は休憩室に足を進めて来るなり、開口一番に尋ねて来た。
彼の背後には、あの長身の男が、出入り口を塞ぐように立っている。
まるで僕を此処から逃がすまいとしているような行動に思えて、少しばかり不快感を感じた。
「……相馬、鈴です」
視線を落としながら短く答えると、彼は僕の真向かいのソファーへと腰を降ろして、可笑しそうに笑い出した。
「すず?女みたいな名前だな。オマエ、女みたいに女々しかったりするのか?」
棘の有る言葉に不快感はより一層強まって、僕は何も答えず、あからさまに顔を反らす。
反らした先で自販機をじっと見つめると、相手は気に食わないと云ったように、軽く鼻を鳴らした。
「オマエ、歳は幾つ?」
「…十九です」
掛けられた問いに、自販機を見つめたまま短く答えると、相手は馬鹿にするように嗤う。
「俺は二十三だから、俺の方が年上だな。」
「だから、何だって云うんです、」
「歳が近い方が、より一層相手の事を分かってやれる。黒鐡の事を理解出来るのは、俺の方だって事。」
鋭さを増した口調に自然と眉を寄せて、僕は相手の方へと顔を向け直した。
だが視線は相手の顔へ向ける事はせずに、テーブルの上に置いたカップへと目がゆく。
どうしてかそれは相手の近くに有って、僕はそれを疑問に思いつつも
カップを再び手にして口に付け、少し冷めてしまった珈琲を一気に飲み干した。
「歳で、相手を理解出来るんですか。それなら…貴方より逸深さんの方が、黒鐡さんをもっと理解出来るって事ですね」
「……オマエ、意外と負けん気が強いんだな。でも俺にあまり生意気な口を利かない方がいい。
その綺麗な顔に熱湯を浴びせて、人目に触れる事の出来無い面にしてやる事なんて、簡単だからな」
恐ろしい事を平気で口にされたものだから、先程の逸深の言葉が、不意に頭を過ぎった。
―――――黒鐡と関係を持った相手を、今まで色んな手を使って消して行った。
―――――殺され掛けた人も、居たよ。
頭の中でその言葉が響いた瞬間、僕は慌てて立ち上がって、その場から離れようとした。
けれど相手は素早く、僕の腕を強く掴んで来て、その唐突な行動にひどく驚いた。
その手を振り払おうとすると、彼は反対の手をゆっくりと動かして、自分の首筋を指し示した。
「それ、黒鐡に付けられたんだろう?逸深は、痕を付けるような事は好まないし。」
痕、と聞いて僕ははっとして、慌てて首元を手で押さえた。
もしかしたら反対側だったのかも知れないけれど、僕は他人に触られている強い不快感と
嫌悪感に苛まれていて、どちら側に付けられたのかを思い出せる余裕なんて無かった。
………出来る事なら、今直ぐにでも、この場から立ち去ってしまいたい。
そう考えると、僕は拍車がかかったように相手の腕を思い切り振り払った。
あっさりとその手が離れた瞬間、視界がぐらりと揺らいで、僕は咄嗟に自分の頭を片手で抑える。
どうしてか眠気を催して、それは急速に強まって、僕は耐えるように何度か瞬きを繰り返した。
だけど眠気は治まらず、更に強まるばかりで――――。
倒れてしまいそうだと思って、身体の力が抜けた途端、僕は誰かの腕に支えられていた。
意識はひどく曖昧で、瞼を閉じた僕の耳に、せせら笑う声が聞こえる。
「オマエ、馬鹿な奴だな。他人の近くに有る飲み物なんて口にするなよ。警戒心の欠片も無い奴だ……おやすみ、相馬鈴」
ひどく綺麗な声が遠くの方で響いて、異常な程の強い眠気に耐えられずに、僕は意識を手放した。
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