黒鐡......25


「…さん、相馬さん…目を覚まして下さい、」
 遠くから聞こえるような呼び掛けに、僕はうっすらと瞼を開けた。
 この声の主は誰だろうかと考えるけれど、頭がぼんやりして、上手く考えられない。
 それにひどく眠いし、もう少し寝ていたいと思って、開けた瞼を閉じようとする。

「相馬さん、当主様がお待ちです。目を覚まして下さい」
 少し大きめの声が聞こえて、僕はようやく徐々に目を覚まし始めた。
 ちゃんと目を覚ます為に何度か瞬きを繰り返して、少しだけかぶりを振る。
 そうする事で、ようやく意識がはっきりとした僕は、病院でも無く御島の家でも無い見慣れない天井を目にして、驚いて飛び起きた。
 傍らにはスーツを着た長身の男が、姿勢良く正座をしながら座っていて、その事にもひどく驚いた。
 どうしてこんな所に居るのかとか、此処は何処なのかとか尋ねたかったけれど、他人と言葉を多く交わす事なんてしたくない。

「相馬さん、当主様が大広間でお待ちです。立てますか、」
 尋ねず、自分で判断する為に室内へ視線を走らせた僕は、耳に入って来た言葉に少しだけ震えた。
 穏やかさなんて全く含んでいないような厳し過ぎる声音が、あの独特の雰囲気を持つ御島とは、違った恐さを感じる。
 何も言葉を返せずにいると、彼はゆっくりと立ち上がって、部屋の襖を開けた。
 当主様、と云うのはやはり――――六堂嶋家の、当主の事だろう。
 何がどうなっているのか分からず、不安に苛まれながら起き上がると
 拒否権を与えないような強い口調で、男はついて来てくださいと、僕に声を掛けた。








 男に案内された大広間はあまりにも広く壮観で、畳六十畳は有った僕の家の大広間よりも、数倍は有る。
 座るようにと促された場所の、少し離れた両脇に何人もの人が並ぶように座っていて、部屋の広さよりもその事に圧倒された。
 正面の上座には紺色の着物を纏っている人が、座っている。
「お早う、相馬鈴。睡眠薬のお陰で、ぐっすり眠れただろう。良い夢は見れた?」
 響きの良い声を掛けられて、上座に座っている人が六堂嶋家の当主だと云う事を
 僕はようやく理解出来て、くすくすと笑う相手に愕然とした。
 どうして、睡眠薬なんか飲ませてまで、僕をこんな所に連れて来たのだろう。

 ………僕は、どれぐらい寝ていたのだろう。御島は僕を心配してくれているだろうか。
 色々思案しながら、僕は周囲に視線だけを素早く走らせた。
 両脇に座っている人達の背後には障子戸があって、その向こう側からは雨音らしき音が聞こえた。
 病院に居た時は降っていなかったのに、一体どれぐらいの時間が経っているのだろう。
 それにこの、周りに居る人達は何なのだろう…と訝った矢先に、当主の笑い声が耳に響いた。

「恐い?周りに居る奴らはみんな、オマエより背が高いもんな。そいつらは、みんな本家の人間だよ。オマエの為に集めたんだ」
「…何故、そんな事を、」
 周囲から注がれる視線にひどく身体が緊張して、胃がせり上がって来るような感覚に悩まされる。
 搾り出すような声で問うと、相手は何が可笑しいのか、愉しそうに笑った。
「何故?そんなの、オマエが有害な人間だからに決まっているだろう、」
「有害…、」
 棘の有る言葉を掛けられて、僕は微かに俯く。
 周囲の人間が声を潜めて、何かを囁き合って、僕に聞こえるぐらいの声で言葉を交わしている人も居た。


 ――――――あの顔で、黒鐡様を誑かしたんだとさ。身の程知らずも良い所だな。
 …………男の癖に、黒鐡様を誑かそうとするなんて気色が悪い奴だ。

 周囲からはっきりと感じられる侮蔑に、胸がむかむかして、口の中が渇いてゆく。
 どうしてこんな目に遭うのかと考えた瞬間、逸深の言葉が頭を過ぎって、そう云う事かと納得した。
 御島の傍に居る僕は、この人達にとって、ひどく邪魔な存在なんだ。


「ねぇ、オマエ、黒鐡の事を愛しているのか?」
 直球的で冷ややかな問いに、僕は少しだけ身体を震わせた。
 すると相手は笑い声を立てて、響きの良い声で言葉を続かせる。
「俺の勘違いなら、直ぐにでも帰してやれるんだけれど……………ねぇ、違うって云えよ」
 最後の方はとても鋭いものに変わって、強い悪意が感じられた。
 周囲の人達の視線も痛いぐらいに突き刺さって、否定しろと告げている。
 違うと口にして、もう御島とは関わらないようにしろと、告げている。
 息が詰まりそうな程の悪意が、この空間に大きく渦巻いて、僕は唇を強く噛み締めた。


 僕は―――――とても恐い。
 幼い頃、人は僕にそれを向けていたから………僕は、僕に向けられる悪意が、恐くて堪らない。
 吐き気が込み上げて来て、身体はひどく緊張して、僕は何も答えられずに居た。

「そうか、俺の勘違いか。そうだよな、黒鐡は人殺しだから、あんな人殺しを愛せる奴なんて居ないもんな……
俺だけが、あの血で汚れた醜い獣を愛してやれるんだ」
「御島さんは、醜くなんか…、」
 耳に入った言葉に僕は咄嗟に顔を上げて、ひどく弱々しい声でだけれど、言葉を返した。
「ああ、そうだね、醜い獣じゃなかった。あれは鉄だ。生きてもいない、冷たい鉄の塊だ……俺だけの、」
 滑稽、とでも云うように、相手は高らかに笑い出した。
 顔を上げて、僕は内心、信じられない想いで相手を眺める。


 ――――――生きてもいない、冷たい鉄の塊。
 その言葉が、何よりも痛々しく感じて、ショックを受けた。

「あれを愛せる奴なんて居ないよ。愛せる奴は俺だけだ。俺の物だから、俺が愛す」
「僕、僕は…黒鐡さんが…………好き、です」
 震えた声で告げると、相手の笑い声がぴたりと止まって、周囲の人間が再びざわめき始めた。
 愛してなんか居ないと、本当は、口にするべきだったのだろう。
 僕はきっと選択を誤ってしまったのだろうけれど、大切で深い感情を、もう偽りたく無かった。
 想いを初めて口にするこの瞬間が、本人を前にしてでは無い事が少しだけ哀しかったけれど、
 僕はすみませんと告げて畳の上へと手を付き、頭を下げた。
「好き、だと?ナキリ、こいつの言葉…今の、聞いたか?」
「はい。…残念ですね。私は、彼は物分りが良い方だと思っていたのですが、」
 重々しく冷ややかな声が耳に入って、頭を下げていた僕は、震えてしまいそうな自分を叱咤して唇を噛み締めた。


 ―――――今まで色んな手を使って消して行った。……殺され掛けた人も、居たよ。
 ―――――その綺麗な顔に熱湯を浴びせて、人目に触れる事の出来無い面にしてやる事なんて、簡単だからな。
 頭の中で、逸深と当主の言葉が響いて、背筋に冷や汗が伝うのを感じた。

 口にした言葉に、後悔は、無い。
 ただ少しだけ我儘を云えるのなら………御島に、この感情を伝えたかった。


「当主様、そいつの顔を前の女みたいに、醜くて見れない顔にしてやったらどうです?」
 声が上がって賛成の声が幾つか響いて、違う提案を上げる人の声も響いて、異常な雰囲気に息苦しささえ感じた。
 けれど直ぐに、当主が黙れと命じて、室内は嘘みたいに一気に静まり返る。
「……彼には二度と、黒鐡様に触れられないようにして差し上げましょう。」
 あの、重々しく冷ややかな声を放った男の声が、再び耳に入って来た。

 心を切り裂くような、鋭い悪意を含んだ低い声が、ひどく恐ろしい。
 けれど、逃げたくは無い。


 以前の僕なら何もかも諦めて、また一人に戻ろうとしただろう。
 あがいてもどうにもならないなら、最初から諦めた方がずっと楽だと分かっていたから、何もかもを諦めて来た。
 でも、こればかりは、御島のことだけは――――どうしても、諦めたくなんか無い。

 恐怖に負けそうな自分を叱咤して、僕はゆっくりと顔を上げた。
 僕は今初めて、生まれて初めて、何よりも大きな我儘を云う。

「黒鐡さんのお傍に、居たいんです」
 震える事も無く、明瞭な声が自分の唇から零れて、それに励まされるように、僕は目線を上げた。
 当主の―――あの、悪意があまりにもハッキリと浮かんでいる瞳を
 怯みそうなのを何とか堪えながら、今この瞬間、僕は真っ向から見据えた。

「何、だって…?」
 ゆっくりと目を細めた相手は、刺すような冷たい声を放って、背筋が凍りつきそうな程の冷笑を口元に浮かべる。
 芯から冷えるようなそれに目を逸らしてしまいたくなったけれど、
 僕はがちがちと震える歯を強く噛み合わせ、恐怖に負けそうな自分を心中で何度も叱咤した。
 だけど次の瞬間、室内に響いた高らかな笑い声に、僕は目を見開く。
 当主が俯いて頭を抱え、肩を揺らしながら可笑しそうに笑っていて、どうしたのかと眉を寄せた瞬間
 相手は笑うのを止めて少し呻いた後、直ぐに顔を上げて立ち上がり、僕の元へ勢い良く近付いて来た。
 その迫力に圧倒されて、微動だに出来なかった僕の襟首を掴んで、彼は顔を近付ける。


「……オマエ、オマエなんかが、黒鐡の傍に居たいだと?ふざけるなッ」
 鋭い声が上がった瞬間鈍い音が響いて、それと同時に、強い衝撃が頬を走った。
 当主の拳が振り上がって、殴られたんだと理解した瞬間、今度は腹部を殴られて痛みに呻く。
 人に思い切り殴られたことなんて産まれて初めてだった僕は、腹を押さえて眉根を寄せながら
 殴られると云う事は、こんなにも痛いのかと驚いていた。
 痛みで動けずにいる僕の襟首を彼は掴んだまま、今度は強い力で引っ張って、
 まるで僕を引き摺るようにして障子の方へ向かう。
 座っていた大人達は道を開け、その間を当主は僕を引き摺りながら進んで、障子を開けて縁側へ出た。
 縁側の硝子戸を開けた彼は、雨が降っている庭に向けて、思い切り僕を突き飛ばした。
 無様に地面に倒れ込んだ僕は、自分の身体を濡らしてゆく雨と泥の感触に、ほんの少し苛立ちを覚える。

「黒鐡は才能が有るから、六堂嶋にとって大事な存在なんだ。
オマエと違って、多くの人から必要とされているんだよ……それを、それをオマエはっ」
「当主様、落ち着いて下さい。怒ると、また発作が起きます」
「離せ、ナキリッ」
 縁側で身を乗り出した当主を、長身の男が後ろから羽交い絞めにするような形で止めている。
 その光景を僕はまるで、遠くの出来事のように眺めていた。
 雨に濡れるだなんてしたら、また熱を出してしまう……と、僕は上体だけをゆっくりと起こして
 降り続く雨に打たれながら、まるで逃避するようにそんな事を考えた。

「黒鐡の傍に居たいなんて、二度と叩けないようにしてやるッ、
オマエなんか誰からも必要とされない癖に…オマエなんか要らないんだよっ」
 突き刺さるような言葉は尤もな言葉で……僕は傷付く事も無ければ、泣く事も否定する事もしない。
 ――――けれど。

「黒鐡は死ぬまで、俺の物だっ」
 けれどその言葉は肯定出来なくて、僕は殴られた腹部から手を離して、ゆっくりとかぶりを振った。
「違う。黒鐡さんは、物じゃない」

 冷たい鉄の塊でも無く、所有されるべき物でも無い、あの人は―――――
 温かくて、僕にとって必要な、かけがえの無い存在だ。


「……ッ、誰か殺せっ、こいつを今直ぐ、俺の前で殺せッ」
 僕の言葉が怒りを更に煽ったのか、当主は綺麗な顔を歪めて怒鳴り声を上げた。
 僕は、御島に想いを伝えられないままで、殺されるのだろうか。
 それだけは嫌だと考えて、逃げなければと思った瞬間………
「六堂嶋の当主様とあろう者が、見苦しいですよ。」
 聞き覚えの有る冷たい声が響いて、部屋の奥の襖がゆっくりと開かれた。
 黒いスーツを着込んだ御島が部屋に入って来て、縁無しの眼鏡を掛けているその姿は、どうしてかひどく冷たく感じた。

「黒鐡、何をしに来た…邪魔するつもりかっ」
 羽交い絞めにされていた当主はいつのまにか解放されていて、怒り狂った表情で御島を見上げて、煩い声を上げる。
 縁側まで近付いた御島は僕の方へ視線を向けて、一瞬だけ眉を顰めた。
 はっとして、殴られた頬に手をそっと当てると、そこはとても熱くなっていて鈍い痛みが走る。
 痛みに片目を瞑った途端、御島は苦々しげに笑って、直ぐに僕から視線を逸らした。






次頁からは暴力描写が有ります。
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