黒鐡......26


 そして、本当にゆっくりとした動きで、当主の方へと目を向けた。
 ズボンのポケットに入れていた片手を出して、御島はその手で、スーツの上着の釦を外す。
 ベルトに差した、鈍く光る黒い何かを彼が引き抜いた瞬間―――――。

「当主様っ」
 あの梛鑽と呼ばれていた男が叫んで、近くに居た当主を庇うように抱き、床に押し倒した。
 くぐもったような音が微かに聞こえて、御島はそれを構えたままゆっくりと冷たい眼差しを、床に転がった二人へ向ける。
 そこで僕はようやく、御島が手にしているものは銃だと云う事に気付いた。
「黒鐡…お前、お前…嘘だろう、俺を撃とうとしたのか…」
 僕が気付くのと、当主の震えた声が響いたのはほぼ同時だった。
 男の素早い行動で銃弾は誰の身体にも当たら無かったけれど、当主は目を見開き、男に礼を口にする様子も無く御島だけを見つめている。
 御島は何も答えずに鼻で嗤って、構えていた銃を下ろしてから、僕の方へ顔を向けた。
 眼鏡の奥の双眸は相変わらず冷たくて、僕は微かに震えてしまう。
 御島が足を一歩進めたのと、当主が男の身体の下から退いて部屋の方へ走り出したのは、ほぼ同時の出来事だった。
 当主は上座にあった刀を握って、慣れた動きで鞘からそれを抜いた。

「黒鐡っ、そいつに近付くなッ……近付けば、殺すぞっ」
 縁側から降りようとしていた御島の動きが止まって、彼はゆっくりと当主の方へ振り向いた。
 鋭く光る、鋭利な凶器を目にしても、御島は怯む様子なんて全く見せなかった。
「……自分一人では何も出来無いガキかと思っていましたが、少しは成長なさったようですね」
 それ所かせせら笑って、当主を煽るような、そんな言葉まで口にした。
 当主は怒りからか顔を赤く染めて歯を咬み、御島をきつい眼差しで睨みつける。
 だが、御島と当主の間に、あの――――梛鑽が、立ちはだかった。

「当主様、お止め下さい。当主の貴方が、一族の人間を傷付けてどうするんです、」
 宥めるような穏やかな声音で言葉を掛けて、その刀を下ろして下さいと、男は当主に向けて手を伸ばそうとする。
「黙れナキリッ…お前は、お前は俺の奴隷なんだから、黙って見てろ…!俺に、俺に口出しするなっ」
 けれど当主は叫ぶようにそう云って、一度刀を振り下ろした。
 男は斬られまいとするように一歩下がって、眉を寄せて暫く当主を見据えていたけれど、
 やがて諦めたように身体を引いて二人の間から離れた。

「その奴隷に、親父に貰えなかった愛を求めているんですか。……滑稽ですね、」
 御島は、嗤った。嗤って、冷たい口調で、吐き捨てるように云った。
 思い切り目を見開いた当主は叫びにも似た声を上げて駆け出し、御島に向けて斬りかかった。

 あんな凶器、母の握っていた包丁とは訳が違うのだ。
 あんなものに斬られたら御島でも危険じゃないかと考えて、僕はこの距離では
 何が出来る訳でも無いと云うのに、慌てて立ち上がろうとした。
 だけど殴られた腹部が鈍い痛みを訴えて、素早く立ち上がる事も出来ずに居た僕の目に――――
 振り下ろされたそれを寸前で避けた、御島の姿が映った。
 避けた彼は相手の、刀を手にしている方の腕を迷い無く、捻るように掴み上げる。
 あっという間の出来事に僕は動くことも忘れて、ただずっと御島に視線を注いでいた。

「黒鐡…は、離せ…ッ」
「いけませんね、当主様。抜刀は上手くなったが、振りがまだ甘い。やはり素人が手にすれば、折角の刀もただの飾りですね」
 御島は冷笑を浮かべて、言葉を云い終わるか終わらないかの内に
 間近の硝子戸へと、握っていたその手を容赦なく押し付けるようにして叩きつけた。
 硝子の割れる音と当主の悲鳴が響いて、彼の手に握られていた刀が、庭の地面へと転がり落ちる。
 どれだけ強い力で叩き付ければ、あの決して薄いとは思えない硝子戸が割れるのだろうかと、僕は強い恐怖で身体を凍りつかせた。
 男や六堂嶋の人間が当主を呼んで………その時になって僕は、当主の名を誰も口にしていない事に気付いた。
 あの、当主の奴隷だと云う男ですら、彼の事を当主様としか呼んでいない。
 それに六堂嶋の人間は当主を呼ぶだけで、男以外誰一人として――――彼に駆け寄る人は、居なかった。

「くそ、黒鐡…気が、触れたのか……お前は、俺の物なのに…、」
 硝子の破片が幾つか刺さって、流血している手を力なく下ろしながら、彼は苦痛に呻く。
 御島は興味など無いと云ったように、床に膝を付いた当主にはもう見向きもせず
 砕けて散らばっている硝子の破片を靴で踏み付けて、縁側から庭に降りた。
 彼が土足だと云う事に僕はようやく気付いて、本当に彼は無茶苦茶な神経をしていると、僕は雨に打たれながらぼんやりと考える。
 彼も雨で濡れてしまうと思いながらも、近付いて来る御島の姿に、ひどく安堵感が沸いた。

 だけど彼は、左手に持っていた銃を唐突に、僕に向けて構えて来て…………

「鈴は俺の獲物ですから、他の誰にも殺らせる気は有りませんよ」
 御島の言葉に、その行動に―――――全身が、凍りついた。
 彼の荒々しい筈の足音は全く聞こえず、ゆっくりと僕の元へ近付いて来る。

「は、はは…そうか黒鐡…何だお前、最初から…そのつもりだったのか。……なら早く殺れ、直ぐにでもそのガキを、殺せ…ッ」
 苦痛の表情を浮かべながら、手の応急処置を男に任せている当主が、嗤う。
 僕は、目の前に置かれた現状に、目を瞑ってしまいたかった。

「鈴、濡れ鼠だな…風邪引いちまうぜ。……殴られたのか?」
 御島は僕の前まで近付くと、あの冷たい銃口を向けながら、そんな言葉を掛けて来た。
 眼鏡の奥の眼差しは、恐いぐらいに冷たくて、鋭い。
「……騙して、いたんですか、」
「人聞きの悪い事を言うんじゃねぇよ。俺は云った筈だ……過去に、おまえを殺そうとした事が有る、ってな」
 問いには答えずに弱々しい声で尋ねると、御島は口角をうっすらと上げて、冷ややかな声音を放った。
 それを聞いて愕然とした僕は、全身の力が抜けてしまいそうになって、何とかそれを堪える。
 そうだ。確かに御島はそう云って―――けれど、それは過去の事だからと僕は気にしなかったのだ。
 御島は一言も、今はそんな事をするつもりは無いなどと、言わなかったと云うのに。


 ………僕は、何て馬鹿なんだろうか。
 どうして、もっと早く、気付かなかったんだろう。

 ――――――僕は人の言動に傷つくことなんて、絶対に無かった。
 だけどもう、誤魔化しようがないぐらいに、認めざる負えないほどに……僕の心は今、何よりも傷付いている。
 もっと早く気付いていれば、こんなにも傷付くことは、無かったんだろうか。


 ……………胸が、心が、身体中が、何もかもがひどく痛くて、苦しい。


「鈴……どうして自分が泣いているのか、分かるか、」
 涙が頬を伝って、下唇を噛み締めていた僕の耳に、御島の優しい声色が響く。
 凶器を手にしている男の言葉とは思えないほど、それはひどく穏やかで、
 その優しさに縋ってしまいそうなのを堪えて僕は小さく頷いた。
 泣いている理由なんて、痛い程、分かる。

「御島さんに、裏切られることが……こ、殺されることが………辛くて、悲しい…」
「どうして殺されたくないと思う。ガキの頃は、殺してもいいと口にしただろう、」
 僕はその事を覚えていないし、思い出す事も出来無い。
 ただ、生きる事に執着はしていなかったんだろうと、それだけは何となく理解出来た。

「………あの頃と今とじゃ、違う…から、」
 弱々しい自分の声が響くと、御島は向けていた銃口をゆっくりと下ろした。
 持っていた凶器を手慣れた様子でベルトに差したその姿に、僕を殺すのは本気じゃないのかと
 淡い期待を抱いたけれど、相手はそんな僕の考えを見破ったように、小馬鹿にするように軽く嗤った。
 目の前まで近付いて来た御島は、地面の上へ膝を付いて手を伸ばし、僕の首に指を回して来た。
 その行為に僕は思わずひっと悲鳴を零して、身を捩ろうとしたのに、身体は凍りついたように動かない。
「少し力を入れれば、簡単に折れちまいそうだな」
 そう言って笑った御島の雰囲気が、禍々しさを感じさせるぐらいに恐ろしく
 圧倒的な威圧感を感じさせる程に重々しくて………身体が、みっとも無いぐらいに震え出した。

 信じたくなかった。
 御島は優しくて温かくて、それなのに今、僕を殺そうとしているだなんて、信じたくなかった。
 御島は、僕を殺すことなど容易いと告げているのだと云うことが理解出来て、胸が、ひどく痛い。


「…で?どう違う、」
 耳の奥にしっかりと響くような、明瞭な発音で問われて、僕は唇を噛み締めた。
 雨に濡れた服が肌に纏わりついて、その感覚が僕の心を余計に重くする。
「今は……、」
 震えた声を響かせて、僕は大切なあの感情を――――――深い想いを、口にしようとした。
 最愛の人に殺されそうだと云うのに、僕は、想いを告げようとしている。
 僕は、もうどうしようも無いぐらいに………殺されるのだと分かっていても、この男が好きで好きで仕方ない。

「黒鐡さんが……す、好き…好きです、」
 精一杯想いを口にしたけれど、御島は眉一つ動かさずに僕を見下ろしていて、それがひどく辛かった。
 僕の想いなど気にならないと云うように、御島は嗤って、回した手にほんの少しだけ力を込めた。


 やっと想いを相手に告げる事が出来たのに、僕はその相手に殺される。
 なんて悲しい、告白なんだろう。


「…ぼ…僕、黒鐡さんの事……変になってしまいそうな程に、好き…」
 想いを一度口にすると余計に止まらなくなって、僕は泣きながら、言葉を続かせた。
 こんな風に、変になってしまいそうな程に、誰かを想った事なんて無い。
 好きと云うものは限りが無く、深くも浅くもなるんだと云う事を、僕は知った。
 大切なものを、御島は沢山教えてくれて………だから益々、僕は彼の事を好きになった。
 初めて優しくされたから好きになったとか、そんな単純なものじゃなくて―――――。

「それで……お前はどうしたい、」
 御島が低い声色で囁くように尋ねて、僕は目を見開いた。

 僕は何かをして欲しいとか、ねだったり甘えたりなんて事は、絶対にしない。
 それなのに、こんな状況で、どうしたいと御島は尋ねて来た。
 望みを初めて口にしたとしても、それが叶わない事なんて、明白だと云うのに。
 口にしても叶わないなら、虚しいだけじゃないかと考えて、僕はかぶりを振った。

「そうか、なら…思い残す事はもう、ねぇって事だよな」
「ぁ…っ」
 僕の首を本当に、御島はまるでいたぶるように、徐々に力を込めて絞め始めた。
 いたぶるように絞めて来る冷酷さに、僕は本当に殺されるんだと理解出来て、
 出来たと同時に、激しい焦燥感に駆られた。

「くろが、ね…さんと……、」
 云わなくても良い事を―――叶わないから、口にしても虚しいだけだと云う事を分かっている筈なのに
 僕は震える唇を開いて、御島の双眸を見つめた。

 僕の望みは、御島や当主、六堂嶋の人間にしてみれば、ただの我儘だ。
 それも十分解っているのに、望みが叶う事は絶対に無いと解り切っている筈なのに
 口にしようとしている僕は、本当に滑稽で、そしてひどく愚かしい。

 だけど、言いたい。口にしたい。
 望みを……僕の、心の底から願うことを。


「黒鐡さん…と……い、一緒…に……」


 ――――――――――生きて、ゆきたい。


 紡いだだけで、胸が詰まる程に、切ない願い。

 これは、一生に一度の、願いだ。
 この人は、僕が初めて……………心の底から必要だと願う、大切な存在だ。


 望みを口にしても、首に回された指に力が更に込められたから
 本当にこれで終わりなんだと考えて僕は涙が溢れる目を、きつく瞑った。






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