黒鐡......27



「………鈴、上出来だ」
 目を瞑った瞬間、喉奥で笑いながら御島が言って、僕の首からあっさりと手は離れた。
 絞める力は以前兼原に絞められた時よりも弱かったから、解放された僕は咳き込む事も、頭痛すら感じる事も無い。
 目を開けて呆然と相手を見上げると、御島は掛けていた眼鏡を外して懐に終い、直ぐに顔を近付けて僕の唇へと口付けて来た。
 唐突な行動に思考が上手く付いていかず、相手をただ見上げる事しか出来ずにいた僕を
 御島は強く抱き締めて、咬み合わせを深くして来る。
「ぅ…ん――…っん……、」
 強引に歯列を割って入り込んで来た御島の舌に、口腔を探られる。
 舌を絡め取られて何度もきつく吸われて、僕は相手の胸元を縋るように掴んで、息を弾ませた。
 雨で濡れた御島の前髪が垂れて、雨水を肌に伝わせている様がひどく魅力的だと、そんな事をぼんやりと思う。
 更に強く抱き寄せられ、濡れた身体を密着させながら官能的なキスを御島は繰り返して来るものだから
 雨の中だと云う事も忘れるぐらい意識は朦朧として、芯から熱くなって身体が震えた。

「黒鐡っ、何を…何をしてるんだ!今直ぐそいつを殺せば、俺に怪我を負わせた事も許してやるっ、だから早く殺せよッ」
 当主の怒鳴り声が耳に響いて、御島はゆっくりと舌を抜き去ると、忌々しそうに舌打ちを零した。
 目を細めながら、唾液で濡れた下唇を軽く舐める、獣のようなその仕種に僕はぞくぞくしてしまう。
「申し訳有りません、当主様。俺はこいつの願いは、叶えてやると決めていますので…」
 当主に向けて放たれた声は、あまりにも冷ややかで、鋭い。
 それなのに御島の目は、縛り付けて離さないかのようなギラついたあの―――獣のような双眸は
 ずっと僕を見つめていて、優しい色を浮かべている。

「僕を殺すのは…本気じゃ無かったん、ですか?」
「いや…殺す気だったぜ。おまえが願いを口にしなけりゃ、な。」
 膝を付いていた御島はゆっくりと立ち上がって、先程のキスで多少脱力してしまった僕を丁寧に立たせた。
 僕の身体を支えるように抱きながら、彼は薄く笑って、平然とそう答える。
「ふざけるなよ、黒鐡…っ!くそ…くそっ、ナキリ、あのガキを殺せよッ早くしろ!」
 御島の自分勝手な面に呆気に取られて居ると、叫びにも似た声が上がった。
 当主に命じられた梛鑽と云う男は、怪我を負った当主から離れて庭に下りる。
 地面に落ちていた刀を男が拾ったのを目にすると、ひどく緊張して、息苦しささえ感じた。
 逃げた方が良いんじゃないかと考えた矢先に御島は僕から離れ、近付いて来る男の方へと自ら歩み寄る。
 男は僕を殺せと命じられた筈なのに、唐突に、御島へ斬り掛かった。
 刀を一振りした後、間を置く事無く二振りめを繰り出す。
 雨の中でも軽やかに斬り掛かって、御島はそれをぎりぎりと云った様子で躱していた。
 当主が相手の時と比べると、御島の表情からは全く余裕が消えていて………あの男は、御島の言葉を借りるなら、素人じゃないのだろう。

 ―――――僕はもう、御島に怪我をして欲しくない。
 男が御島に向けて再び斬り掛かって、躱し損ねた御島の服が、少し裂けたのを目にした瞬間
 強い焦燥感を感じて、僕は殴られた痛みも忘れて咄嗟に走り出し、二人の間へ飛び込んだ。
 するとどうしてか、刀を振り下ろそうとしていた男は急に、その動きを止めた。
 動きを止めた男を見逃さず、スーツを着ているのにも関わらずに、御島は素早く蹴りを繰り出す。
 目の前を過ぎったそれを追って視線を向けると、御島は刀を持つ男の手では無く、刀身の部分を躊躇い無く蹴り上げた。
 その瞬間、煩いぐらいの金属音が響く。
 刀はどうしてか、勢い良く男の手から離れて空中に舞い上がり、
 やがて回転しながら落下したそれは、少し離れた先の地面へと突き刺さった。
 あんな鋭い刀身を蹴ったと云うのに、御島の靴が切れた様子も、負傷した様子も見当たらない。
「鉄、仕込んでんだよ。靴の中にな、」
 刀を目で追った男を鼻で嗤うと御島は僕に向けてそう口にし、勢いを付けた右足を男に向けて叩き込む。
 けれど、その蹴りは相手が少し身を引いた為、ぎりぎりで避けられてしまった。
 長身の体躯は勢いに乗ったように反転し、男に背を向けたと思いきや
 御島は素早く身体を回して今度は左足で相手を蹴り付けた。
 鮮やかとも呼べる素早い動きに、僕は、目を奪われた。

 上から下に叩き付けるようなその蹴りを、梛鑽は片腕だけで防いだけれど、
 鈍く厭な音が響いて、その身体は簡単に地面に平伏した。
 …………今の音はもしかして、骨が折れた音じゃないだろうか。
 鉄が入っている靴なんかで蹴られたら、ただでは済まないだろうと思案して、血の気が引く。
 大人の男を、それが例え体格が良い相手だとしても簡単に暴力で平伏せる事が出来る御島が、恐く思えた。
「鈴、いきなり飛び出すんじゃねぇよ…危ないだろう、」
 苛立ったように舌打ちを零した御島は、暴力的な筈なのに、優しい口調で僕に言葉を掛けてくれる。
 彼は口元に柔らかい笑みまで浮かべたけれど、銃を無造作にベルトから抜いて構え―――――。
 腕を押さえながらも起き上がろうとした男の肩を、躊躇い無く撃ち抜いた。
「ナキリッ」
 悲痛な声が響いて、自分も怪我をしている事なんて忘れているかのように、当主が縁側から身を乗り出す。
 地面に倒れた男の腹部へ、御島は一度蹴りを叩き込むと、打ち抜いた肩を残酷にも踏み付けた。
 立ち上がらせまいとするように押さえ付けるその姿は、相手を人として扱っていないようにも見える。
 銃口をゆっくりと相手に向ける御島に、その光景に、足が竦みそうになったけれど
 彼が銃を右手で構えている事に遅れながら気付いて、はっとした。
「黒鐡さ…傷が…、」
「傷が開こうが痛もうが的は外さねぇから、安心して良いぜ」
 くくっと低い声で笑った御島に、普段の優しさなんてものは無くて
 まるで獲物を咬み殺そうとしている、獰猛な獣のように思えて慄然とした。

「黒鐡っ、やめろ…ナキリは俺の奴隷だぞッ」
 悲痛な声を上げながら、此方へと急いで駆けて来る当主の姿が、目に映る。
 今までの彼の態度とは打って変わって、焦燥の色を浮かべているのは………
 御島が、本当に人を殺そうとしているのだと云う事を、分かっているからだろうか。

「……たかが奴隷一人、別に死んでも構わないでしょう。こんな人間はさっさと壊して、新しい奴隷を飼えばいい」
 冷酷無情と呼んでもいいぐらいに、冷淡な言葉を放った彼の目は――――ひどく、冷たい目だった。
 御島の双眸に、放った声の冷たさに、恐怖で身体が凍り付く。
 息が詰まる程の圧倒的な威圧感が、何よりも冷たいあの目が、僕に向けられている訳でも無いのに恐くて堪らない。
「やめろよ黒鐡…俺の云う事は、何でも聞いて来たじゃないか…それなのに、どうして俺を裏切るんだよ、何でそんなガキなんだよっ」
 駆けて来た当主は、少し距離を置いた先で足を止めて、悲痛な声を上げた。

「……当主様、覚えておいた方がいい。奪えば、自分も奪われると云う事を」
 御島は口端だけを吊り上げて、梛鑽の肩をより強く踏み付け、引き金に指を掛ける。
 呻く男の服には、恐いぐらいに血が滲み広がり、当主がやめろと叫んで―――――。
「黒鐡さん…、」
 御島は躊躇う素振りも見せず、引き金を引こうとしたものだから、僕は咄嗟に彼を呼んだ。
 自分の声はひどく小さくて、雨の音で聞こえないかも知れないと思ったのに
 御島は指の動きを止めて僕に視線だけを向ける。
「どうした、鈴」
 掛けられた声音は場にそぐわない程に優しく、御島の表情も少し穏やかなものになっていた。
 だけど鋭利な双眸の、身も凍る程の冷たさは薄れる事も消える事も無くて、その事がひどく悲しく感じる。
「や…やめて、ください。そんな黒鐡さんは……嫌だ…」
 唇から搾り出すような声を零すと、御島は気を悪くしたのか、眉を顰めた。

 僕は他人に対して優しさも、思いやりすら持っていない。
 他人なんてどうでもいいし、梛鑽が殺されようが傷付こうが、御島さえ無事ならそれで良い。
 そう思っていたけれど、人を殺そうとしている御島の姿を目の前にしてしまったら、止めずには居られなかった。
 もしも御島が、僕の前で人を殺してしまったりなんかしたら………
 御島の優しさが――――今まで感じていた温かさが、僕の中から消えてしまいそうで、恐い。

「……おまえの願いや望みは叶えてやると決めているんだ。癪に障るが、やめてやるよ」
 男の肩を相変わらず踏み押さえたまま、御島は舌打ち混じりに返して、引き金から指を離してくれた。
 雨に長い間打たれた身体は、とても冷えていたけれど
 御島のその言葉に、胸は熱くなった。

「当主様、鈴のお陰でこの玩具を壊さずに居てやるんです。鈴に感謝して下さい」
「黙れ黒鐡っ、足を…俺の奴隷から早く足を退けろっ」
 睨み付けながら当主が鋭い声を上げると、御島は薄く笑って、素直に足を退けた。
 当主はすぐさま、倒れている男の方へと駆け出す。
 彼が御島の真横を通り過ぎようとしたその刹那、御島は唐突に
 銃を持っている方の手を振り下ろし、当主の後頭部を黒い銃の柄で殴打した。




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