黒鐡......28



「当主様……次はありませんよ。俺から奪おうとするのなら、鈴に何かしようものなら………」
 力無く地面に崩れ落ちた当主へ、冷淡な眼差しが向けられる。
 殴られた箇所を押さえながら、当主は苦痛に歪んだ表情で御島を見上げた。

「――――貴方の大切なものを、消しますよ。」
 凍り付いてしまいそうな程、静かで鋭い声が響いて、御島は凄絶な笑みを浮かべた。
 あまりの迫力に呼吸が上手く出来ず、息苦しさを覚えた僕の身体は、がくがくと震えていた。
 当主は地面に倒れている梛鑽へ一度視線を向け、続いて悔しげに唇を噛み締める。
 眉を顰め、肩を震わせているその姿から、彼の大切なものとは梛鑽の事なんだと理解出来た。
「勝手な事をしたら…六堂嶋の人間が、黙って…いないぞ、」
「六堂嶋の人間は、当主の貴方より妾腹の俺に懐いている。当主の癖に、貴方は何よりも孤独だ…… その濁った眼で、しっかりと見たらどうです。貴方がこんな目に遭っても、駆け付ける人間は一人も居ない様を」
 御島はあの笑みを嘲笑に変えて、ゆっくりとした動きで、黒い鉄の塊をベルトに差して収めた。
 言われるまま、当主は視線だけを縁側の方へ向けたものだから、
 僕も釣られるように目を向けたけれど、御島の云う通り、此方に駆けつけて来る人は居ない。
 六堂嶋の人間達は、ただ此方を見ているだけで一歩も動こうとはせず
 困惑や恐怖の色を浮かべて、戸惑っている様子で………
 御島に逆らってまで、当主を助けようとする人は、その中には誰一人居なかった。

「くそ…っちくしょう…、……畜生…ッ!」
 まるで打ちひしがれたように俯き、片手で地面を殴りつけて、当主は悔しげな声を響かせた。
 孤独なその姿がひどく悲しく見えて、思わず彼から視線を逸らした先に、此方へ近付いて来る御島の姿が見えた。
「鈴、帰るぞ。本当に風邪引いちまう、」
 掛けられた言葉はあまりにも優しく、温かい声音で……身体が、熱くなった。

 ――――――帰れる。
 御島と、また一緒に暮らせるのだろうか。
 僕は、彼と一緒に生きても、いいのだろうか。
 そう考えると、込み上げて来るものが抑えられず、僕は少しだけ涙を零した。

 僕は御島の前では本当に、泣いてばかりだ。
 以前の僕は、泣く事を忘れたみたいに、涙なんて全く零さなかったのに。
 御島を好きになってから僕は本当に、弱くなった。
 泣いてばかりの今の自分が、ひどく格好悪いと思ったけれど、でも………。
 でも、感情を表に出せるようになった事は、悪く無い気がした。

 目を伏せると御島はまるで、あやすように僕を抱き寄せて、額へと口付けた。
 雨に濡れているから、泣いている事なんて分からないだろうと思っていた僕は、彼のその行動に少し驚く。
 そろそろと視線を上げると、眉を顰めて怒っているようにも見える御島と、眼が合う。
「悪かった、鈴。恐い想いをさせちまったな、……痛むか、」
 ひどく優しい声が、耳の奥に響く。
 殴られた頬に視線を感じて咄嗟にかぶりを振ると、御島は急に僕を軽々と抱き上げて、肩に担ぎ出した。
 彼が足を踏み出した瞬間、とても弱々しい声で、当主が御島の名を呼んだ。
「黒鐡、お前…お前なんかが、人殺しで鉄の塊のお前なんかが、外で幸せになれる訳が無い…俺の傍に居ればずっと幸せでいられる。…ッ…それなのに…それなのに何でそんな、ガキなんか…、どうして俺を裏切るんだよ…」
 嗚咽混じりの声が上がって、今の彼には当主としての姿なんて何処にも無くて………
 まるで小さな子供のように思えて、僕の耳には、行かないで欲しいと懇願しているように聞こえた。
 御島は一度足を止めたけれど、振り返ることはせず、喉奥で静かな笑い声を立てる。

「俺は自分が幸せになりたい訳じゃねぇ。鈴を、幸せにしてやりたいだけだ…」
 慇懃でも無い、低く通る声で明瞭に紡がれた言葉に、心底安堵感が湧く。
 顔を上げた当主は目を見開いて、両手を、あの怪我をしている方の手も一緒に動かして、自分の顔を覆い隠した。
 泣き叫ぶような声が上がって僕は驚愕したけれど、御島は構わずに足を進め出した。
 その場から離れて庭を進み、当主の姿が見えなくなると、僕は張り詰めていたものが
 一気に解けてゆくのを感じて―――――拙いと思う間も無く、糸が切れたように意識を失った。






「……あの料亭を指定したのは、相馬君を母親に会わせる為だったんだろう、」
「察しがいいな。あの料亭に連れて行けば、あいつは俺に、母親に会わせてくれるよう頼んで来ると思った。鈴の事だ、一人で行く事も軽く予想していたんだが…本当に行っちまうとはな。鈴は本当に、俺の思い通りにならねぇ」
 ぼんやりとした意識の中で、誰かの話し声が遠くの方で聞こえて、僕はうっすらと目を開けた。
 ハッキリとは判断し難いけれど、目にした天井は御島が入院していた病院の天井に、良く似ている気がする。
「思い通りにならないのが可愛くて堪らないなんて、どうかしてるよ。……一つ訊いていいか?どうしてあの女性に、素直に刺されたんだ。お前なら直ぐに腕を捕まえて、一本や二本簡単に折ったりするだろう。相馬君を惚れさせる為か?」
「あいつは随分前から俺に惚れていたんだぜ。本人は無自覚だったが…」
「なら…気付かせる為か、」
「いや、違う。惚れた相手が刺されたんだ。此れで心置きなく、母親から離れられるだろう。あいつはあの女のことが、ずっと心に引っ掛かっていたみたいだからな」
「お前…そんな事をして、相馬君の心が壊れるとは思わなかったのか?」
「馬鹿云ってんなよ。あいつは身体は弱いが、中身はそこまで脆く無い。中身まで脆かったら、俺が惚れる訳ねぇだろう。第一、それぐらいで心が壊れるような弱い奴なんざ、いらねぇよ」
「お前がそれ程強く誰かに惚れるなんて、まだ信じられないよ。顔は美人だし、可愛い所も有るって事は分かったが……何処がいいんだ、」
「本当は淋しくて堪らない癖に強がっている所が、可愛くて堪らねぇ。傷付いている癖に、それを認めようとしないしな。 鈍い所も甘え下手な所も、素直になれねぇ所も何もかもが良いんだよ。……逸深、あいつの事をぐだぐだ言うんなら、容赦しねぇぞ」
 意識がひどくぼんやりとしていて、遠くの方で聞こえる声が上手く聞き取れない。
 熱が有るのか、身体はやけに怠くて、寝返りすら打つのが億劫だった。
 思考も上手く働かない上、遠くで聞こえる声があまりにもハッキリしないから、現実なのか夢なのかすら分からない。

「悪かったよ、もう言わない。…当主様、かなり意気消沈していたぞ」
「知るかよ。あの馬鹿当主、勝手しやがって。鈴を連れ去った上、手まで上げやがった。鈴の顔を見た時、その場に居た奴ら全員……本気で殺してやろうかと思ったぜ」
 低く冷ややかな、鋭利な声が響いて、一瞬、恐怖で背筋に寒気が走る。
 だけど、この声は御島の声だと、ぼんやりとした頭でそれだけは理解出来て、直ぐに恐れは消えた。
 声が聞こえるぐらい近くに居てくれてる事実に、強い安堵感が湧いて、僕は瞼をゆっくりと閉じる。

「殺しに、私情は入れない筈だろう。六堂嶋黒鐡の名が泣くぞ」
「名前なんざ、どうでも良い。俺はただ、鈴を甘やかしまくって可愛がって、何よりも幸せにしてやりてぇんだよ」
「変わったな、黒鐡。丸くなったと云うか…優しくなったな、」
「笑える話だが、あいつを前にすると自然とそうなる。自分でも、不思議で仕方ねぇよ」
「いいな黒鐡、人間っぽくて、いい。以前のお前は本当に名前通りだったけど…今は、すごく人間っぽいな。俺にも相馬君のような恋人が居たら、良い風に変われたかもな」
「サドで歪んでるお前に、鈴が惚れる訳ねぇだろ」
 御島と誰かの抑え目な笑い声が響いて、御島の事を想うと温かい気持ちになって
 僕はあまりの心地好さに、誘われるように眠りに就いた。






 どうやら雨に打たれた所為で熱を出してしまったらしく、僕は三日も意識を取り戻さなかったらしい。
 目を覚ますと僕は御島の家のベッドで寝ていて、その事を御島から聞かされて、また迷惑を掛けてしまったのかと反省した。
 何か心地の好い夢を見ていた気がすると考えながら上体を起こすと、御島は近くの椅子から立ち上がって、ベッドの上へとあがって来た。
「おまえが熱で意識を失っている間に、殴られた所は少し腫れたんだが……まだ痛むか、」
 御島の指が頬に触れたけれど、もう痛みなんて全く感じない。
 痛く有りませんと答えると御島は眉を顰めて、何処と無く怒っているような、やけに真面目な表情を浮かべて僕を見据えた。
「鈴、六堂嶋の人間に他には何もされてねぇか、」
「…醜くて見れない顔にしてやったら、とは言われましたけど……僕の顔、変になってませんよね?」
 首を少し傾げて訊き返すと、御島は安堵したように微笑してから
 僕の頬へ手を当てがい、目元をゆっくりと指でなぞった。
「なってねぇよ。腫れももう引いているが…襲いたくなるような面は、してるぜ」
 臆面無く掛けられたその言葉に熱が急上昇して、僕は恥ずかしさで視線を逸らした。
 すると御島は可笑しそうに笑い声を立てたものだから、からかわれたのだと察し、直ぐに視線を戻す。
「鈴…、俺の事を好きだと云ったな」
 唐突に肩を押されて、呆気なくシーツの上へと沈んだ僕に向けて、彼は目を細めながら尋ねて来た。
 うっすらと口元に微笑を浮かべているその表情が、ひどく格好いい。




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