胡蝶…2

「今日、授業で斉物論を学んだんだけど、知ってる? 胡蝶の夢、」
「自分が蝶になった夢を見たのか、あるいは蝶が夢を見て自分になっているのか…ってやつか、」
「そう、それ。…あれさ、結構恐いよね。」
「何処が、」
 小馬鹿にするように鼻で軽く笑い、好久は煙草を口に咥えた。

 ジッポライターの蓋を開ける際、小気味の良い金属音が響いて、比鷺の視線を上げさせる。
 煙草に火を点ける動作ですら、好久はまったく隙が無い。
 苦味を堪能するかのように深々と吸い、やがて紫煙をゆったりと吐き出す。そんな姿に、つい見惚れてしまう。
 が、視線に気付いた好久と目が合うと、慌てて顔を背けた。
 背けても、兄が笑っているのが手に取るように分かり、居た堪れなくなった比鷺は急いた様子で口を開く。
「兄さんは恐くないの、…もし後者だったら、今の自分は存在しないことになる。今まで生きてきた自分が、すべて誰かの夢だったなんて考えると、僕は恐くてたまらないよ。」
「…なるほど。影響され易いヒロの事だ。大方、蝶になった夢でも見たんだろう、」
 好久は煙草を指で挟み、身を屈めた。
 部屋は別だが、好久は比鷺の部屋を度々訪れる為、備えの灰皿はいつも定位置に有る。
 ベッド下から我が物顔で灰皿を取りだし、丁寧な仕種で灰を落とした。
 しかし行動とは裏腹に、口ぶりは明らかに嘲弄しているものだから、比鷺は憤りを隠せない。
 自分は真剣に悩んでいると云うのに、まともに取り合ってくれない兄を腹立たしく思う。

「もういいよ。煙草臭いから、早く出て行って、」
 気を損ねた比鷺は、部屋の扉を指し示した。
 好久はそれに従わず、ちらりと扉を見遣っただけで動こうともせずに、平然と煙草を喫んでいる。
 比鷺がどんなに睨みつけて来ようが、好久からして見れば愛らしいものでしか無い。

「良く云うぜ。この匂いが好きだからって、以前はキスを何度もせがんでいた癖に、」
「そ…れは、……大昔の話だ、」
「たった1週間前が、大昔か。お前の感覚は随分変わっているな、」
 揶揄交じりに言い放つと、比鷺は俯いて押し黙った。
 言い負かされることが分かっている癖に、彼は良く咬み付いて来る。
 まるで小動物が必死に虚勢を張っているようで面白く、好久にとって、比鷺は厭きない存在だ。

 まだ喫み掛けの煙草を、好久は迷い無く灰皿に押し付け、火を消す。
 灰皿を床に置き捨てた後、唐突に、弟の肩を強く押した。
 半身を起こしていた比鷺は呆気なく、シーツへ沈む。

「知っているか、ヒロ。胡蝶は、夢に限りなく近いものなんだぜ。どっかの部族じゃあ、胡蝶は夢を運んでくるものだと伝えられている。胡蝶の異名も、夢を見る鳥と書いて、夢見鳥と云う。夢と現実の狭間を往来する象徴だ、」
 語りかけながら好久は臆面無く、比鷺の上へ覆い被さった。
 けれど比鷺は狼狽する様子も見せず、兄をじっと見上げている。
 今の現状よりも好久の言葉に意識が集中している為、比鷺の瞳には好奇の色が濃く浮かんでいた。
「どうして蝶なのに鳥なの、全然似ていないじゃないか、」
「少し聞き齧った程度だから、詳しくは知らないが…鳥は昔から、霊魂の象徴や化身とされていたらしい。胡蝶も同じだ。魂が胡蝶の姿になって現れる、と云う話も有る。……魂で思い出したが、夢には、魂が通う路があるとまで云われていたな。」
「何だか、ひどく幻想的な話だね、」
「ああ。だが、女は好きそうだよな、こう云う話。」
 比鷺の髪を指で梳きながら囁くと、その手は直ぐに払われる。
 表情を窺い見れば、比鷺は眉を寄せ、不機嫌な色を際立たせていた。

「そんな話を好む女性なんて居るもんか、退屈なだけだ。 女性を口説くことしか頭に無い兄さんなんか、変質者扱いされればいい、」


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