胡蝶…03
「何だよ…今度は嫉妬か。色々と忙しいやつだな、お前は。」
「もういい、寝る。」
比鷺は短く告げ、好久の下で身体を横向きにし、目を瞑った。
無理にでも部屋から追い出そうとしない辺りが比鷺らしいと、好久は声を抑えて笑う。
そのまま比鷺の横顔を眺めていたが、数分も経たぬ内に瞼が開かれた。
「……蝶になった夢がさ、すごくリアルだったんだ。今思うと、恐いよ、」
横向きのまま、此方に視線を向けることもせずに、比鷺はぽつりと零す。
その表情は、ひどく頼り無い。
「そんなに恐いのか、」
「だって、リアル過ぎると、本当に夢なのか分からなくなるじゃないか。戻れなくなったら、どうしよう。僕が信じている現実が、夢だったらどうしよう…って、不安になる。蝶の夢なんて、もう二度と見たくない、」
唇を尖らせ、まるで幼い子供のような科白を口にする比鷺に、いささか驚く。
普段の比鷺は、凛として大人びて見えると云うのに、今ではまるで子供のようだ。
それだけ自我に拘り、現実に執着しているのだと、好久は思う。
そう云った人間からして見れば、夢は甚だ恐ろしい。
目を覚ませば、今まで見ていた世界が一瞬で、無となるのだから。
「見たくないものほど、夢に見るもんだ。潔く諦めて、胡蝶でも何にでもなっちまえよ。戻りたくなったら、俺が戻してやる。」
「また、キスで起こすの、」
「お望みなら、抱いてやっても良いぜ、」
躊躇いも無く紡がれた言葉に比鷺は瞠目し、横目に相手を見遣る。
平然としている好久を眺める内、比鷺の頬は徐々に紅みを帯び、まるで恥じらうように視線が逸れた。
「馬鹿、そんな反応をするなよ。本気で喰いたくなるだろう、」
「…そう云っておいて喰わない癖に。どうせ、また僕を揶揄っているんだ、」
「お前が成人するまで待つつもりで居るんだぜ。俺は、犯罪者にはなりたくないからな、」
真面目な口ぶりでも無く、明るい調子で返され、比鷺の胸中は複雑になった。
兄は、こう云う事を軽口で云うから、いつだって、本気なのか冗談なのか分からなくなる。
「兄さんは、女性が好きなんだろう。しょっちゅう恋人が居るじゃないか、」
「今は居ないぜ、」
「…これからも作る癖に、」
非難を交えた科白に兄が眉を顰めたが、比鷺は構わず、再度瞼を閉じた。
戻してやる、と告げた言葉が脳裏に浮かび、強い安堵感に包まれる。
瞳を閉じれば、眠気は直ぐにやって来た。
「おい、云っておくが、彼女達は俺の恋人なんかじゃない。ただの女友達だ、」
「キスまで…していた癖に、良く言うよ、」
「誰だってするだろう、挨拶みたいなものだ。……ヒロ、聞けよ。」
瞼を閉じたまま、反応しなくなった比鷺に気付き、好久は軽い舌打ちを零す。
幾度か呼び掛けると、瞼がほんの少しだけ開いた。
形の良い唇が、たどたどしく動く。
「ちゃんと、戻して。僕はまだ、此処に…居たいから、」
「今度は舌でも入れてやろうか、」
「…いいよ、…兄さんになら、何されたって……いい…、」
聞き取り難いほどの、小さな声で答えた比鷺の瞼は、既に閉じていた。
予期せぬ言葉に驚かされ、好久は緩みそうな口元を手で隠す。
「参ったな、人の気も知らずに…そんな事言いやがって。大体、兄離れはどうしたんだよ、」
呟き、比鷺の前髪を優しく掻き上げてやる。
寝息を立て、あどけない表情で眠りに就いた弟を眺めながら、好久は思う。
――――――離れられないのは、俺も同じか。
微かに苦笑した後、好久は不意に顔を寄せ
夢路を辿っている比鷺の瞼へと、淡い口付けを落とした。
終。
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