祈り…02
その姿で颯爽と仕事をしている様子を、つい想像したぼくの身体は、馬鹿みたいに熱くなってしまう。
ふつうとは呼べない自分の状態にはっとし、慌ててかぶりを振る。
幸いなことに、母と言葉を交わしている兄は一度も此方を見なかった。
それから家に入り、居間に通されても、ぼくに対して一言も口をきいてくれない。
少し妙だなとは思ったけれど、母との会話に夢中なんだろうと考え直して、あまり気には留めなかった。
居間で母と言葉を交わしている間も、暁芳兄さんはネクタイを緩めない。
都心の警官は、ネクタイを緩めてはいけないと云う規則でも有るのだろうか。
訝るぼくの前で、母が笑いながら「くつろいでいいのよ」と声を掛けたが、兄はネクタイを緩めるのではなく正座を崩した。
胡坐をかいても背筋はきちんと伸ばしている姿勢の良さが、ひどく格好いい。
思わず見惚れてしまったが、ぼくの視線に気付く様子も無く、母と兄は会話を続けていた。
「向こうでは上手くやっているの? 暁芳は、すばると違って愛想があまり良くないでしょう。だから心配、」
「俺ももう大人だからな、愛想ぐらいは身に付いているさ。」
「あら、そうなの。じゃあ友だちも増えたのかしら…ほら、すばる。あなたも暁芳と話しなさいな。」
母が嬉しそうに声を掛けてくれたけれど、何を言えば良いのか分からない。
いつの間にか大人の魅力を纏っている兄を前にして、ぼくはひどく緊張していた。
云いたいことは沢山有る筈なのに頭の中で上手く纏らず、少しだけ俯く。
すると、母の笑い声が耳に響いた。
「すばるったら…大好きな暁芳に久し振りに会えたから照れているのかしら。」
視線を上げて兄の様子を窺ってみると、彼はどうしてか複雑な表情をしていた。
微妙に眉を顰めて、少し強張っているようにも見える表情。
どんな心情なのか汲み取れず、ぼくはのろのろと顔を上げた。そこへ、今度は兄の声が掛かる。
「すばるは名前通りだからな。ひとに好かれるんだ。…高校は、どうだ。愉しいか、」
微笑みながら、彼は穏やかな声音で尋ねてくる。
ぼくは頷くだけで声を出せなかった。
以前の兄と違って、どことなく違和感がある。
兄の何がそう感じさせるのかは、漠然としていて分からない。
5年以上も会わなかったから違和感を覚えるのは当然かも知れないけれど、どうにも腑に落ちなかった。
「暁芳、どう云うことなの。名前通りって、」
「悪いけど、俺とすばるだけの秘密。」
「あら…意地の悪い。お母さんにも教えてくれたっていいじゃない、」
母は不満を零したが、兄は笑うだけで一向に教えない。
昔、兄から教えてもらったことは、すべて忘れずにいる。
名前通りと云うのも、そのうちの一つだ。
百以上もの星が集まっている、プレアデス星団の和名が、すばると云う。
青白い星の集団は、蛍の群れのように小さく纏って輝いて、とても美しい。
―――――集まって、一つになると云う意味の”統ばる”から来ているんだ。
おまえの周りには、ひとが寄ってくるだろう。
だから名前通りなんだよ、すばる。みんな、おまえが好きなんだ。
そう云って、ぼくの頭を撫でてくれた兄は、とても優しい顔をしていたのを覚えている。
結局、兄に教えて貰えなかった母は諦めて席を立ち、夕飯の支度をする為に台所へ向かう。
足取りは軽快で、唄まで口ずさんでいるのだから、兄の態度に腹を立てた様子は無い。
兄も彼女の背を見送っていたけれど、可笑しそうに笑う気配は見せず、言葉すら発しない。
流れる沈黙に耐えかねて、ぼくは口を開き、遠慮がちに声を掛けた。
「あの、暁芳兄さん。ぼく、兄さんと星を観に…、」
「すばる。今年、受験だろう。部屋に戻って勉強をしろ。」
母の姿が見えなくなった途端、兄の態度は一変した。
先刻まで見せていた微笑も消えて、その声は刺々しい。
予期しなかった事態に呆然としていると、兄は眉を顰めて睥睨した。
「聞こえなかったのか。俺と話をしている暇があったら、勉強をしろと云っているんだ。」
「ごめんなさい…、」
大好きな兄にそんな態度を取られて、悲しくて堪らない。
震えた声で謝罪し、ぼくは席を立って居間を後にした。
違和感は、これだった。
兄の雰囲気が、昔と違って柔らかくない。
理由は分からないけれど、はっきりと拒絶を感じた。
自室に駆け込むと同時に力が抜けて、部屋の隅で蹲ってしまう。
あんなにも冷たい兄の姿なんて、ぼくはこれまで見たことが無かった。