祈り…03

 夕飯だと告げる、母の明るい声に呼ばれて気落ちしたまま階下へ降りた。
 仕事を終えて帰宅した父は、まだスーツ姿のままで食卓に着き、兄と言葉を交わしている。
 室内の照明がやけに眩しく感じて余計に気が重くなり、顔は自然と俯きがちになる。
 母に促されて腰掛けた席が、兄の隣だったことに気付いた時は、一瞬息が詰まった。
 窺うように兄を見たが、視線を合わせてもくれない様子に、ぼくは再び俯く。

 父が声を掛けた後、家族揃って、いただきますと口にする。………何年ぶりだろう。
 だけど気が沈んでいる所為で、その喜びに浸れなかった。
 食卓には、海老や煮魚に鯛の刺し身、お浸しや煮物、サラダや天ぷらなどが所狭しと並んでいる。
 ぼくの好みの食べ物ばかりだと云うのに、箸を持つ手も上手く動かせない。

「ちょっと気合いを入れ過ぎなんじゃないか。多すぎるだろう、」
 お吸い物を口にしながら、父が笑う。
 何のことは無い、ただの揶揄で、作りすぎたことに不満を抱いている訳じゃない。
 その証拠に、父は何度も美味いと零して箸を運んでいる。
 普段と何ら変わりない、仲の良い二人から目を移して兄をちらりと見遣った。
 二人の様子を微笑しながら眺めていた兄は、視線に気付いたように此方を見てきた。
 視線が絡み合って、強い焦燥感が込み上げる。
 まるで、悪いことをして見つかった時のように鼓動が速まってゆく。
 何か云わなければ変に思われてしまうと考え、まだ言葉が思いつかない内に口を開いた。
 しかし言葉を紡ぐ前に、兄の声が掛かる。
「すばる、もっと喰えよ。そんなんじゃ、いつまでもチビのままだぜ。」
 微笑し、くだけた口調になった兄を前にして、唇を閉じた。

 ―――――ぼくは、平均身長だ。長身の暁芳兄さんと比べないで欲しい。
 そう言い返したかったけれど、また冷たい態度をされたらと思うと怖くて何も云えず、目線を下げる。

「暁芳、お前の背丈と比べるもんじゃないだろう。すばるはこれでも、クラス内じゃあ背が高いほうなんだぞ。」
 黙り込んだぼくにかわって、父が取り成すように答えてくれた。

「そうか。悪かったな、すばる。」
 不意に、兄の手が動いて、ぼくの頭を撫でた。
 彼の手に触れられて、体温が急激に上がる。
 けれど、愉しそうに両親と言葉を交わす兄の横顔を目にして、ぼくは気付いてしまった。
 身体の熱が静かに、そして急速に冷めてゆく。

 単なる勘違いじゃなかった。
 ぼくに向けられる笑みだけが、作り物のようで…………兄の目は、まったく笑っていない。




 食事を終え、母の隣に並んで食器洗いを手伝いながら、少し気になっていたことを尋ねてみた。

 兄が昔使っていた部屋は、今では家具や衣服などが置かれてあって、横になる空間も無い。
 明日の昼間までに家具を移動させて、部屋を使えるようにすると父は言っていたが
 重要なのは、暁芳兄さんは今晩、どこで眠るのかと云うことだ。
 寝るとすれば客間しか無いと見当は付くが、ぼくのなかには、もう一つの予想があった。

「すばるの部屋に決まっているでしょう、片付けが終わったら布団を敷いておかないとね。」
 明るい声で嬉しそうに返されたけれど、ぼくは少しも喜べない。
 母は気遣いに溢れている女性(ひと)だから、そう云うだろうと予想はしていた。
 しかし実際に云われると、拭いていた皿を落としそうになるほど驚いてしまう。

「勝手に決めるのは…拙いと思いますけど、」
「久し振りに戻ってきたんだから、なるべく一緒にいた方がいいじゃない、」


 ――――兄さんは、ぼくを嫌がっているみたいだけれど。
 思わず零しそうになった言葉を、ぐっと呑み込む。
 そんなことを云ってしまえば、母は直接、兄に問い質すだろうと予想がつく。
 困惑して黙り込むと、濡れた食器を拭いていた母が少し悪戯っぽく笑った。
「ひょっとして、お兄ちゃんと一緒のベッドで寝たいのかしら、」

 耳に届いた言葉に、ぎょっとする。
 子供の頃は兄と同じベッドで眠っていたけれど、今は流石に拙い。
 理性が保てる筈も無いと考え、ぼくは母から目を逸らした。
 まっとうでは無い自分の心を見透かされてはいないかと、内心不安になりながらも口を開く。

「ぼくを幾つだと思っているんです。もう子供じゃないんだ。」
「そうよね、ごめんね。なんだか暁芳が家にいると、昔に戻ったみたい。」
 上機嫌な口ぶりで呟き、食器の片付けを終えた母は手を拭いて台所を出ていった。
 布団を敷く為に二階へ行くのだろうと考え、ぼくは慌てて後を追う。


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