祈り…04

 兄の態度が以前とは違うのだから、同じ部屋で過ごすこと自体、気まずい。
 勝手に布団を敷いてしまったら兄の態度は余計に、冷たくなるのでは無いかと云う不安もある。
 廊下を進み、急ぎ足で角を曲がった途端、本人と遭遇してしまった。

「に、兄さん…これからお風呂ですか、」
 彼が持っている浴衣やタオルが目に映って、遠慮がちに尋ねた。
 此方に視線を向けてもくれず、頷くだけで言葉を発してもくれない兄の様子に、ひどく悲しくなる。

「…あ、あの………今夜は、ぼくの部屋で寝るみたいです。」
 どうして、ぼくにだけ態度が違うのかと尋ねたかったが、自分の口から出たのは別の話題だった。
 暁芳兄さんの事となると、臆病になってしまう自分が情けない。

「おまえの、部屋?」
 兄は眉を顰めて、表情に嫌厭の色を浮かばせた。
 場の雰囲気が、やけに重く感じる。

「…俺は客間で寝る。自分で運ぶから、布団には一切触れるな。」
 刺々しく冷たい言葉が胸の奥深くに直接、突き刺さる。
 俯きだしたぼくには構わず、兄は浴室の方へ進みだした。

 どうして、彼があんなにも冷たい態度を、ぼくだけに取るのか。
 その理由が、分からない。
 なにか気に障る事をしてしまったのかと考えても、まったく思いつかない。
 廊下に取り残されたぼくは、無性に泣きたい気分になって走り出し
 階段を駆け上がって、二階のバルコニーへ逃げ込んだ。




 生ぬるい夏の風に当てられて、暫く星空を眺めていたら幾分か心が落ち着いた。
 自室に戻ってみたが、布団は何処にも敷かれていない。
 時刻を確認すれば、1時間以上が過ぎている。
 階下へ降りて居間へ向かう途中で、ぼくはふと、足を止めた。

 客間に続く襖が、開け放してある。
 普段明かりの点いていない部屋からは蛍光灯の白い光が洩れて、廊下をうっすらと照らしていた。
 耳を澄ませば、室内から母と兄の話し声が聞こえてきた。

「すばるは、夜中まで受験勉強をするらしい。俺がいると邪魔になるだろう、だから今夜は此処で寝るよ。」
 本人で無ければ空言だと気付けないほど、兄の声は平然としていた。

 …………そんな事、ぼくは一言も口にしていない。
 やりきれない想いを抱えて、客間の入口へ近付く。
 敷居を意図的に踏むことで憤りをあらわにしたつもりだったが、母も兄も此方に気付かない。
 窓際の近くに敷かれた布団を見遣ってから、ぼくは眉を顰めた。
 ふつふつと湧き上がってくる感情を抑えられず、口を開き掛けた瞬間、廊下側から父の呼び声が響く。
 名を呼ばれた母は振り向き、ぼくを見て少し不満そうな顔をした。
「暁芳が戻って来たんだから、一日ぐらい勉強しなくても良いじゃない。すばる、頭もいいんだし…、」
 言ってもいないことで咎められ、悔しさに歯を咬む。

「…兄さん、気を遣わせてしまって、すみません。」
 目を伏せて謝罪すると母は察したようにぼくの肩を叩き、横を通って部屋を出ていった。
 母に事実を告げなかったのは、余計な心配を掛けたくないのと、兄との問題は極力自分で解決したい意地が有るからだ。
 遠ざかってゆく足音に聞き入った後、視線を上げる。


 先刻の、兄の刺々しい物言いはまだ、胸中に強く残っている。
 思い出すと、今すぐこの場から逃げ出したい心境になったが、ぼくは何とか踏み止まった。
 拳をかたく握り、兄を呼んでみるも、彼の双眸が此方に向けられる気配は無い。
 理由を聞き出そうと決意した心が早くも、挫けそうになる。
 けれど、ここで退く訳には行かない。

 大好きな兄に、これ以上冷たくされるのは耐えられないし
 ぼくに非が有るのならば、きちんと教えてくれないと直しようも無い。

「…兄さん、教えてください。どうしてぼくにだけ…そんなに、冷たいんですか、」
 意を決し、なんとか尋ねることが出来た。
 兄の視線がゆっくりと、此方に向けられる。
 しかし返事は無く、沈黙だけが続く。
 理由を教えてもくれないのかと、悔しい気持ちになって
 こんな事ぐらいで泣きそうになる自分を、情けなくも思う。


「……手紙だ。」
 自然と俯いた瞬間、一言だけ返される。
 顔を上げると、兄はもう、此方を見てはいなかった。
 彼は背を向けて布団の上に座りだし、枕元に置かれてあった書物を手にした。

「手紙って…なんの、」
 若干怯みながら質問を口にしたけれど、返答は無い。
 どれだけ待っても、それ以上は教えてくれず
 永遠に続くかのような重苦しい沈黙だけが、流れていた。



[前] / [次]