祈り…05

 兄が帰省してから三日が過ぎたが、彼の冷たい態度は変わらない。
 それどころか時間が経てば経つほど壁は厚くなって、近寄りがたくなる。

 二人きりになると必ず、話し掛けても無視をされるか圭角のある声を返されて
 顔を合わせる度に険しい表情を向けられ、鬱屈した日々が続いていた。

 連日、ろくに眠りもせずに理由を考え続けた為、瞼が重く身体も怠い。
 だが何よりも重いのは、心だ。
 唯一教えて貰った理由は頭から離れず、ぼくを悩ませている。


 手紙を書き続けたのが悪かったのかと、昨夜思い至ったが、腑に落ちない。
 返事が来るのも待たずに次から次へ手紙を送り続けては、嫌がるのも無理は無いかも知れないが
 あれほど優しかった兄の態度が、それだけで変わってしまう理由としては薄い気もした。

 確かな理由が分からない限り、ぼくは兄の近くには寄れない。
 分からないまま冷たい態度を取られるのは厭だから、逃げることしか出来ずにいる。

 自室で参考書を読み耽っていたぼくは、階下から笑い声が聞こえる度に、居た堪れない気持ちになった。
 昨日は外出していた兄も、日中の気温が30度を超える今日一日は家で過ごすらしい。
 その為、母と兄は居間で語り合っている。
 時間が過ぎ去ってゆく度に疎外感が強まって、参考書を半ば乱暴に閉じた。

 何よりも、母と言葉を交わす兄の、愉しそうな笑い声を聞くのが辛い。
 ぼくの前ではあんな風に笑ってもくれないのにと思うと、耐えられず、従姉から借りた書物の返却を口実に家を出た。


 海岸沿いの遊歩道を歩き続けて、あまりの暑さに息が切れた。
 汗で濡れた衣服が、肌に纏わりついて鬱陶しい。陽に焼かれた肌はひりひりする。
 茹だる暑さに目眩がして少し休もうかと足を止めた途端、視界が大きく揺れた。
 バランスを崩したぼくは咄嗟に、手摺りに寄り掛かる。


 ―――――このまま倒れでもしたら、暁芳兄さんは優しくなってくれるだろうか。
 脳裏に浮かんだ卑しい考えに、嫌悪感が込み上げた。
 馬鹿みたいだ、と。溜め息を交えながら呟く。

 心配されたいが為に自棄になったり、自分を痛めつけるのは間違っている。
 相手の優しさに、泥を塗るようなものだ。
 そんな身勝手な行為は絶対にしたくないし、ぼくは好きなひとに対しては、なるべくなら誠実でありたい。

 手摺りに深く凭れ掛かって俯き、瞼を閉じて兄の姿を思い浮かべた。
 大好きなのに、今は姿を見るのも、傍にいるのも辛い。
 それが悲しくて、どれだけ考えても理由が分からない自分が不甲斐無くて、悔しくて堪らない。

 兄のことを想うと、心は、どんどん沈んでゆく。
 暑さで、身体が弱っている所為だ。
 炎天下では、気持ちまで駄目になってしまう。


「呆れた…人一倍、陽に弱い癖に何やってるの。」
 不意に声が掛かって、影が射した。
 顔を上げて見れば、日傘を差し掛けている従姉が呆れ顔で佇んでいた。

「なにって、休んでるんだよ。…見て分からないのか、」
 手の甲で汗を拭いながら、反抗的な口ぶりで返す。
 思っていたよりも、自分の声には苛立ちがはっきりと含まれている。
 弱っている姿を、この従姉には見られたくなかった為、ぼくの態度は余計に反抗的なものとなっていた。

 ぼくは、この従姉に対しては遠慮がない。
 子供の頃から散々、彼女に振り回されてきたのだから、遠慮よりも反抗の気持ちの方が強い。

「こんな時間から外に出るなんて自殺行為よ。死にたいの、」
「……別に。ぼくが死のうが、ヒナには関係ないだろ。」
 普段なら、ぼくの反抗的な態度を咎める筈の彼女は、口を閉ざした。
 眉を寄せて難しい顔をしているが、攻撃的な雰囲気は感じられない。
 その態度から、心配してくれているのだと察した。
 心が、不思議なほど冷静になって、自分が八つ当たりをしていたことに気付かされる。

「ごめん、あまりにも暑いものだから苛ついていた。心配、してくれたんだろう。」
「どうしたの、今日はやけに素直ね。いつもそうなら、かわいいのに。」
 普段の調子に戻った従姉は、声をたてて笑った。
 耳に届く笑い声は響きが良くて、まったく気に障らない。
 気が緩んだぼくは、軽い口調で冗談を放った。
「ヒナ、笑いすぎるのは下品だ。もう少し淑やかになれよ。」
「すばるが筋肉隆々になったら、考えてもいいわ。」
「何だよそれ、意味が分からない。」
「あたしが淑やかになるのは、それぐらい難しいし、有り得ないってことよ。」
 当然のことのように云ってのける神経が、ぼくには理解出来ない。



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