祈り…09
「吐き気はないか。頭痛は、」
「大丈夫です。…兄さんには、迷惑を掛けてばかりだ。」
「堅苦しいことを云うなよ。おまえは俺の弟なんだぜ。こんなの、迷惑の内に入らない。」
優しげな双眸で見下ろされて、切ない気持ちが込み上げてくる。
好きだと、口にしてしまえたら……どんなに楽だろう。
想いを言葉にしたい衝動に駆られたが、ぼくは何とかそれを押し殺した。
こんな異常過ぎる気持ちを押し付けることは、間違っている。
「あの…母さんは、」
「おまえを迎えに行くんだって、車で雛乃の家へ向かったよ。行き違いになったみたいだな。」
「そうですか。……ぼくの身勝手な行動で心配を掛けさせてしまった事を、謝らないと。…兄さんにも、」
「よせよ。俺には謝らなくていい。」
「どうして、」
「俺はおまえに冷たく接していたんだ。そんな俺に、おまえが頭を下げる事なんて無いだろう。」
「…その事ですけど、ずっと考えていたんです。でも、分からない。ぼくが手紙を出し続けていたのが悪かったんですか。」
内心、縋る想いで尋ねた。
明日には帰ってしまうのなら、尚更、知っておかなければならない。
兄を見据えると、彼の顔に一瞬だけ、困惑した表情が浮かんだ。
少し間をあけたのち、彼は深々と溜め息を吐く。
「思い当たらないなら、あの手紙は間違って入れたものだったのか。」
「なんの…話です、」
「……俺のことが好きだと書かれた便箋が、一枚だけ入っていた。」
淡々とした物言いで告げられ、血の気が引いた。
鼓動が、煩く感じるほど速まる。
―――――あの、手紙だ。
溜め続けていた兄への想いを一枚の便箋に書き連ねて、抽斗の奥に隠した。
それからは一度も読み直していない。そう、読み直していないのだ。
確認しなければ、本当に抽斗の奥にしまったままなのかすら分からないじゃないか。
現に、ぼくしか知らない手紙の存在を、兄は知っている。
当時の記憶を必死に思い出して、ぼくは息を呑んだ。
便箋に想いを書き連ねたのは、確か、兄への返事を書いている途中だった。
同じ便箋に書いていたのだから、誤って封筒に入れてしまったとも考えられる。
「……最初は、何かの間違いかと思った。だが、文面を何度も読み返してゆく内、本気なんだと分かったよ。戸惑って、返事も書けなかった。」
低く静かな声音が響いて恐る恐る兄を窺えば、目を伏せた表情が視界に入る。
視線を合わせまいとしている姿は、ぼくに対して嫌悪感を抱いているからとしか思えない。
強い焦燥感が込み上げて、何とか誤魔化そうと口を開いたが、言葉は出ない。
沈黙が、ぼくを呵責する。
まっとうになれない自分が、実の兄に対して恋心を抱いてしまった自分が
どんな人間よりも価値が低い存在に、思えてくる。
胃がきりきりと痛み出して吐き気すら込み上げた瞬間、兄が再び溜め息を零したものだから、驚きで身体がびくりと跳ねた。
「馬鹿、そんなに怯えるなよ。俺は、おまえを責める気は無いんだ。」
「…でも、気持ちが悪い…筈だ…ぼくは、異常なんです…、ぼく…ぼくは、価値の無い人間なんだ…、」
「そんな悲しいことを云うもんじゃない。恋愛の対象が同性に向いたからって、劣等感を抱くなよ。それだけで、おまえの人格が決まる訳でもないんだ。
大体、人間の価値なんてものは誰が決めるものでも無い。ひととして大切なのは、もっと他のものだろう。違うか、」
兄の表情は厳しかったけれど、声音はあまりにも優しくて、それだけで救われた気がした。
――――ぼくはやっぱり、このひとが好きだ。
身体の奥から熱い何かが込み上げて、視界がほんの少しぼやけた。
慌てて顔を背けると、ぼくを気遣う兄の声が耳に入る。
「すばる、どうした。気分が悪くなったのか、」
「いいえ…暁芳兄さんが、優しいから…、」
「…そうか。冷たくして、悪かった。俺のことを早く諦めさせてやろうと思って、今度会った時は冷たく接しようと決めていたんだ。」
「そう、だったんですか…、」
「ああ。だが、もうそれもしなくて済むな。おまえが雛乃と交際しているんだと知って、安心したよ。」
嬉しそうな笑い声が聞こえた。
ぼくが、異性と交際することが―――まっとうになることが、兄の望みなのだ。
痛いほどそれが理解できて、背けた顔を戻せず、瞼をきつく閉ざした。