祈り…10
胸の奥に、何か重いものが圧し掛かっているような感覚に苛まれて、苦しくて堪らない。
ぼくが好きなひとは昔も今も、ただ一人だけなのに。
「違う。…ヒナとぼくは、そう云う関係じゃないんです。兄さんは、誤解している…ぼくは、今でも―――」
辛苦に耐え切れず、咄嗟に言葉を紡ぐ。だけど、最後まで云えなかった。
こんな、異常な想いを言葉にして、押し付けて………いったい、何になると云うんだろう。
困らせるだけだと考えたら最後まで云える筈も無くて。ぼくは必死に言葉を呑み込んだ。
兄のほうへ顔を向けなおせば、困惑げな表情が目に映る。
最後まで口にしなくても、ぼくが何を云おうとしたのか理解している顔つきだ。
彼は戸惑いがちに視線を彷徨わせ、やがて深い溜め息を零した。
「やはり、最初から遠まわしな方法を選ばず、正直に云うべきだったな。…自分の弱さに嫌気がさす。」
「兄さんが弱いなんて、そんな事…、」
「おまえが思っているより、俺は出来た人間じゃない。……ああ云う態度を取れば、俺のことを嫌いになるだろうと思っていた。虫が良すぎるよな。
本当におまえのことを想って諦めさせるつもりなら、正直に云えばいいだけの話だ。
俺は、おまえと真っ向からぶつかるのが厭だった。弱かったんだ、」
「兄さんは優しいひとだから…ぼくと衝突すれば、父や母にも迷惑が掛かると思ったんじゃないんですか、」
「そんな綺麗なものじゃない。俺自身が、気まずい想いをしたくなかった。ただ、それだけだよ。…卑怯なんだ、」
苦笑する兄の姿を見て、ぼくはいてもたっても居られず、上体を起こして何度もかぶりを振った。
「本当に卑怯な人間は自分の非を認めたりなんて、しません。兄さんは強いひとだ。自分をしっかりと見つめているじゃないか、」
「…そう云って貰えると、気が楽になる。すばるには昔から救われてばかりだな。……だからこそ、俺は…、」
一度言葉を区切った兄は表情を曇らせた。
目を逸らして眉根を寄せる姿に、云いようの無い不安が募る。
「兄さん、何です…、」
流れる沈黙に耐えかねて恐る恐る問えば、兄はぼくを真っ直ぐに見据えた。
真摯な眼差しを向けられて、微かに身体が震える。
彼の、こんな眼差しは今まで見たことがない。
鼓動が速まって、息が詰まる。
時間の流れが、とても緩やかに感じた。
暁芳兄さんの口元が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、動いた。
「俺は、おまえの想いには応えられない―――」
電話の電鈴が聞こえて、目が覚めた。
呼び出し音は八回を過ぎた頃に鳴り止んだが、耳を澄ませば、応対する母の声が聞こえる。
切れた訳じゃないのだと思案して瞼を開け、上体を起こし、周囲をざっと見回す。
室内は薄暗く、暁芳兄さんが傍にいる気配もない。
あの後、茫然としていたぼくに向けて、彼は少し休めと声を掛けてくれた。
自分で思っていたよりも、身体は暑さで大分弱っていたし、現状から逃げたかったのも合わさって素直に従った。
眠ってから、大分時間は過ぎたみたいだ。
窓の外を見れば陽はすっかり沈んで、夜空に織女星のベガが一際明るく輝いている。
太陽より50倍もの明るさで輝く青白い星のベガには、夏の夜の女王、との別名もある。
相応しい呼び名だろう、と。昔、兄は本当に愉しそうに、星のことを沢山語ってくれた。
心が乱れたときは、星をみて感情を落ち着かせるのだと、過去に兄から教わった。
だけど、今はどれだけ眺めても心が騒いで、焦燥感が込み上げてくる。
夜空を仰ぐとぼくはいつも、暁芳兄さんの言動を思い出してしまう。
先刻の、拒絶の言葉が脳裏に浮かんで、胸の奥が苦しくなる。
あの手紙のことが無性に気になり、ぼくは緩慢な動きで立ち上がった。
もしも抽斗のなかに、あの手紙が入ったままなら………
今の、どうしようも無く惨めな心境も、暁芳兄さんが放った拒絶の言葉も、すべて無かったことになる。
決定的な科白を兄から告げられたと云うのに、ぼくはその現実を見つめられない。
自分の浅ましさを心の何処かでは分かっているのに、抑えられず、少しふら付く足取りで居間を出た。
玄関先からは、母の話し声が聞こえてくる。まだ通話中なのだろう。
母に声を掛けることもせず、反対側へ進み出したぼくは、二階の自室を目指した。