祈り…13
織女星のベガ、牽牛星のアルタイル、白鳥座のデネブが描く三角形は、夏の大三角と呼ばれている。
昔、星が大嫌いだった頃は、夏の大三角すら見つけられなかった。
まだ小学生だった頃、夏休みの宿題で星の観察をしなければならなかったのだけれど
星座を見つけるのが下手だったぼくは、毎晩、夜空を睨みながらべそをかいていた。
望み通りに見つからないから、余計に、嫌いになってゆくばかりだ。
そんなおり、兄が、先ずは織女星のベガから探すのだと教えてくれた。
教科書では白鳥座のデネブから見つけると書かれてあったのに、兄の探し方はまったく違っていた。
光度が0等のベガは、北半球ではもっとも明るい星だから見つけ易いらしい。
ベガを見つけたら、次は牽牛星のアルタイルを探す。
最後にデネブを見つけて夏の大三角を目印に、星座を探してゆく方法が一番分かり易い。
暁芳兄さんは本当に愉しそうに、星のことを教えてくれるものだから、ぼくも夢中になった。
授業で聞くよりも、彼が語ってくれたほうがずっと印象に残ったし、愉しくてたまらなかった。
次第に、夜空で瞬く光がぼやけ始める。
兄のことを想うと胸が痛くて、息苦しい。
慌ててかぶりを振り、夜空に目を凝らす。
暁芳兄さんとよく星を観にいった
真栂神社へ、無性に行きたくなった。
徐々に強まる衝動は抑えられず、ぼくは部屋を飛び出して階段を駆け下りた。
玄関先で電話をしている母に出掛けることを告げ、家を出て真栂神社へ向かう。
月明かりで照らされた道を、軽やかに疾走した。
乾いた夜風が肌に触れて、心地いい。潮騒が、耳に響く。
鼻先を擽る潮の香りが、いつもより濃く感じた。
十五分ほど走り続けて、鳥居の前へ辿り着いた。
鳥居をくぐった先に待ち構えているのは、傾斜が急な石段だ。
そのうえ、段数は九十近くもあるのだから訪れるひとは極稀で、今も人の気配は感じない。
手摺りに触れながら石段をのぼると、密集した樹木が目に映る。
神社の周りは、スギやヒノキなどの木々に囲まれていて、
視界の端に見える巨木には
紙垂(のついた縄が巻きついている。
生い茂った木々の合間を、参道にそって奥へ奥へと進んだ。
月明かりが次第に届かなくなって、境内は薄暗くなる。
閑静な社の前で参道が途切れても構わず、社の裏へ向かうと、木の柵が行く手を塞いだ。
昔とは違って背丈が随分伸びているぼくは、柵を難無くよじのぼり、乗り越えられる。
子供の頃は、まだ小さかった身体では上から通れず、柵の下の隙間をくぐっていた。
そんなぼくとは対照的に軽々と柵を乗り越える兄の姿は、とても魅力的だったのを今でも、よく覚えている。
柵を越えて少し進んだところに、視界が一気にひらける場所がある。
星座観察には、最適の場所だ。
この場所を教えるのは、すばるにだけだ、と。
優しい声を掛けてくれた、昔の兄の姿が脳裏に浮かぶ。
あれ以来、星を観る時はいつも、暁芳兄さんがぼくの手を引いて此処に連れてきてくれた。
過去の記憶に想いを馳せながら更に奥へ進むと、ようやく、月明かりの下に出た。
視界いっぱいに星屑の群れが広がって、無意識に口が開く。
だけど、少し離れた先で空を仰いでいる人物に気付き、ぼくは慌てて唇を閉ざした。
一呼吸置いて「兄さん」と呼び掛けてみると相手は振り向き、驚いたようにほんの少し眉を上げた。
「おまえも、此処に来たのか。」
「はい。今夜は、いつもより星が良くみえますから、」
「そうか、……こっちは、こんなに星がみえるんだな。忘れていたよ。
向こうだと、街の灯りが多すぎるし空気も澄んでいないから、天の川なんて全くみえない。」
兄は苦笑し、再び夜空を仰ぐ。
その横顔を暫し眺めて、ぼくは躊躇いながらも兄の隣へ並んだ。
彼が一瞬でも嫌がる素振りを見せたらすぐに離れようと決めて、ぼくは注意深く顔色を窺った。
意外なことに、暁芳兄さんは穏やかな表情を崩さない。
兄が今、何を考えているのか気になって視線を注いでいると、相手は急に口を開いた。
「知っているか、すばる。星の光が地球に届くには、光速でも時間が掛かる。織女星を見てみろよ、あれは地球から25光年離れている。
だから、いま目にしている織女星の光は25年前に星から発せられたものなんだ。
ひょっとしたら、ここから見える星のどれかは、もう死んでいる星かも知れない……俺たちは、過去の星の輝きをみているんだぜ。」