祈り…16

「か、母さん…兄さんは、暁芳兄さんは…、」
 内心、縋るような想いで尋ねると、暁芳兄さんは朝一番の電車に乗って、もう東京へかえってしまったのだと聞かされた。

 昨夜の自分の醜態を考えれば、兄のその行動は当然のことなのかも知れない。
 拒絶されても仕方の無いことを、ぼくはしてしまった。
 でも、黙ったまま帰ってしまうなんて、あんまりだ。
 どうして誰も起こしてくれなかったのかと、憤りすら覚える。

「なんで起こして…くれなかったんですか、」
「暁芳が起こさなくていいって云うんだもの。すばるの顔を見たら、東京に帰れなくなるって。
お父さんたら、いっそすばるも連れて帰ったらどうだ、なんて云うのよ。
すばるまで家を出たりしたら、お母さん淋しくてたまらないわ。あ、これ…暁芳がね、すばるに渡してくれって。」

 暁色の封筒を差し出されたが、ぼくはそれを受け取ることに躊躇いを覚えた。
 昨夜から、どうにも気が滅入って臆病になっている。

 見ただけでは封筒の中身は分からないが、封筒のサイズからして手紙だろう。
 本来なら、兄からの久し振りの手紙に大喜びしていた筈だ。
 けれど、今のぼくでは気落ちしてゆくだけで、心から喜べない。
 黙って東京へかえってしまった彼が、わざわざそれを置いてゆくなんて
 ぼくに面と向かって口に出来無い言葉が、書かれているのでは無いだろうか。

 例えば…………昨夜の、ぼくの醜態を責めるような、言葉。
 昨夜のことに後ろめたさを抱いている所為で、ぼくは悪いほうへと考えてしまう。

 なかなか受け取ろうとせずにいると、母が案ずるように名を呼んだ。
 母に心配だけは掛けさせないよう封筒を手に取り、眺めてみた。
 封蝋は暁芳兄さんらしく、綺麗に整っている。
 兄の姿が鮮明に浮かびあがって、ほんの少し息苦しさを感じていたぼくの耳に、母の笑い声が響く。

「すばるに宛てた暁芳の封筒は、いつもその色よね。」
「そう云われて見れば、そうですね。……何でだろう、」
「あら…すばる、覚えていないの、」
「…何を、ですか、」
 封筒から顔を上げて尋ねると、一瞬だけ間があき、母が苦笑した。
「今、お兄ちゃんにちょっと同情しちゃった。…あのね、すばるがまだ小さい頃の話なんだけれど… その色が大好きだって何度も云ってたのよ。
お兄ちゃんの名前の色だから好き、って。昔の二人のやりとりって、本当に可愛かったんだから。」

 愉しそうに語られて、恥ずかしさで居た堪れなくなる。
 極僅かだが、そんな言葉を口にしていた記憶が残っているものだから、余計に恥ずかしい。
 顔が熱くなって少し俯くと、母の淋しそうな声が続いた。

「二人とも、あっという間に大きくなっちゃって…男の子は本当に成長が早いわよね。 すばるも、いつかこの家を出て結婚したりするのかしら、」
 窺い見れば、彼女は兄の部屋を名残惜しそうに見回していた。
 微かに笑みを浮かべているその表情は、喜んでいるようにも、淋しがっているようにも見える。
 暁芳兄さんの結婚を祝福していても、やはり心の何処かでは母も淋しいのかも知れない。
 自分の子供が大人になってゆくと云うことは、喜ばしいことで有ると同時に、さびしいことなのかも知れない。
 ぼんやりと考えて、母に向けてかぶりを振った。

「先のことは分かりません。その…結婚、とかも…今は実感が湧かないし、」
「そうね。未来の自分がどうなるかなんて、分からないものね。…やだわ、ちょっと湿っぽくなっちゃった。歳かしら、」
 母はそう云って、そそくさと部屋から出て行く。
 暁芳兄さんのいない部屋に残されて、ぼくも室内を見回してみた。


 ………そうだ。
 明日とか明後日とか、その先も、自分がどうなるかなんて分からない。
 分からないからこそ、変えてゆけるものだってあるんだ。
 兄をもう困らせないで、結婚を祝福できる人間になれる可能性だって…………有るのかも知れない。

 封筒を暫く眺めて、少し迷ったのち、ぼくは思い切って開封しようと決めた。



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