『 証 』

 広く薄暗い室内で、青年は灯りも点けずにソファ上に座り込み、正面の巨大な水槽を眺めている。
 転居した所為で自分の気に入っていた水槽は無くなり、今では横10m、水深5mの巨大な水槽が部屋の大半を占めていた。
 青年はソファの近くに立っている男へと視線を一度向けるが、直ぐに水槽の中の色鮮やかなサンゴ礁へ眼を移した。
 以前とは違って、水槽の中に小さな熱帯魚はもう居ない。
 今では、蝶々魚や雀鯛などの美しい魚達が青白く光る水槽の中で泳いでいる。
 特に雀鯛の碧色は眼を瞠るぐらいに鮮やかで、青年は見惚れる事が多かった。
 だが、今は視線を落とし、零れそうな溜め息を堪える。


「…今朝、仕立てあがった着物が届きました」
 淡々とした言葉を掛けたのは、ソファの近くに立っている男に向けてでは無く、受話器の向こう側に居る相手にだ。
 通話相手はただ一言「そうか」と低い声で答えた。
 それきり言葉は続かず、少し間が空く。

「今日が何の日か、覚えていらっしゃらないんですか?」
「……誕生日だろう、おまえの」
 舌打ち混じりに言葉を返され、青年は悲しげにシャツの胸元を握り締めた。
 短い沈黙が再び流れると、青年は感情を抑えられずに口を開く。

「…誕生日なのに、一緒に居てくれないんですか」
「祝いにそれをやったんだ。文句云うな」
「文句じゃ有りません。……我儘です」
 冷ややかな声にも負けじと、明瞭に言葉を返す。
 相手が何かを云う前に、青年はすばやく声を続かせた。

「一番好きな人と、一緒に居たいって云う我儘です」
「我儘だと自覚して言っているなら、尚のこと質が悪いな。兎に角、俺は忙しいんだ。もう掛けて来るな」
 突き放すような物言いに、胸が痛んだ。
 そんな青年に追い討ちを掛けるかのように、受話器の向こう側から、女性達の華やかな声が響く。
 通話相手が何処に居るのかは、既にソファの近くに立っている男から聞かされていた。
 聞かされたからこそ、電話を掛けずには居られなかったのだ。

「…嘉島さんは、女の人のお相手で忙しいって訳ですね。充分、判りました」
 精一杯の皮肉を返し、受話器を強く握り締める。
 嘉島がクラブに居るのは、付き合いだと分かっては居るのだが、青年は複雑な心情を隠せない。
 頭では理解していても、心は嫉妬や不安が渦巻いている。

「おまえ、妬いているのか」
 小馬鹿にするように鼻で笑われ、一瞬強張った。
 図星をさされ、その上、小馬鹿にしたような物言いで云われたものだから
 まるで自分の醜い部分を咎められた気になり、身体は微かに震え出した。
 力の抜けた手から受話器が滑り落ち、絨毯の上に転がる。
 青年はそれを眺めるだけで、拾おうとはしなかった。
 ソファの近くに立っていた男が、その様子に眉を顰めて素早く受話器を拾い、青年の耳へと当てがう。
 だが青年は、もう何も言えないと告げるように、弱々しくかぶりを振った。

 嘉島は決して優しい人間とは云えず、何処と無くひとを見下している。
 冷めた声を放たれて小馬鹿にされると、相手が自分の想い人で有る分、余計に不安になって胸が痛む。
 うつくしい女性達を頭に思い浮かべた青年は、胸の内で汚い感情が渦巻くのを感じる。

 せめて、嘉島に釣り合うような…………嘉島が、他に心を移さない程の魅力が自分に有れば。
 そこまで考え、青年はシャツの胸元を握っていた手を離す。
 上の釦を二つ程開けていた所為で、微かに見えたものに苦笑した。
 白い肌には無数の傷痕が残っており、それを眼にする度に、青年は恐怖や嫌悪感を抱く。
 嘉島を繋いでいられるものなど、傷の在る醜い自分には無いのだと考え、悔しげに唇を咬んだ。

「おい、蓮…どうした、何を黙ってやがる」
 冷ややかで低い声音が、受話器越しに響く。
 気遣いなど感じられない物言いに、蓮は軽く眼を伏せた。
「いいえ、何でも有りません。大人しく、今日はもう寝ます…お休みなさい」
 沈んだ口調を隠し切れないまま言葉を紡ぐと、蓮は逃げるように、受話器から顔を離した。
 蓮にとって有り難いことに、受話器を持っていた男は再び耳に当てがおうとする事はしなかった。
 男は、受話器を自分の耳に当て、蓮へ目を向けることもせずに口を開く。


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