証…3

 永遠に続くかのように、なんども、なんども苦痛を与えられて
 その時のショックから一時期、声を失った事もあった。

「……いやだ、思い出したく…ない…」
 ひとり呟いた蓮は、逃げるように耳を塞ぎ、目をきつくつむる。

 こんな記憶、戻らない方が良かった。
 思い出さなければ、ずっと、苦しまずに生きていられた。


 …………いや。
 いっそのこと、あの時、舌を噛んで死んでしまえば―――――。
 暗い考えを胸中に抱いた瞬間、嘉島の姿が一瞬だけ浮かんで、消えた。

「なにを、馬鹿な事を…」
 弱くなっている己を責めるように呟き、顔を上げる。
 死んでしまったら、嘉島と想いが通じ合ったあの幸せな瞬間すら、消えてしまう。

 かぶりを振って、気を紛らわせるように視線を移した先には、衣桁に鮮やかな燕脂色の着物が掛かっていた。
 美しい桜の花びらが舞うなか、背には一匹の應龍(おうりゅう)の姿が描かれている。
 翼を持つその龍の姿は、嘉島の背に在るのと同じものだ。
 できれば、嘉島の刺青と酷似させたかったが、見れば見るほど、相違に気付かされる。
 散りゆく花弁の位置や数、色さえも違う。
 そのうえ嘉島の背にある應龍の方が雄々しく、そして気高さも兼ね揃えており、何よりも美しい。
 しかし着物も鮮やかで美しい事には変わり無く、蓮はソファから立ち上がると惹かれるように足を進めた。
 衣桁に掛けられた着物へ手を伸ばし、嘉島の背を思い浮かべながら、指先で應龍に触れる。

「…けんご、さん……」
 か細く、さびしげな声が室内に響くが、答えてくれる相手は此処には居ない。
 細い指で何度か、その一箇所のみをなぞると指を離して自分の服へ手を掛けた。
 躊躇いもせずに釦を外し、上衣を絨毯の上へ脱ぎ捨てる。
 着物姿で外出する気は無い為、下衣すらも下着ごと脱ぎ去った。
 細身の身体が水槽からの青白い光に照らされ、それと同時に、傷痕すらも露わになる。
 蓮は構わずに着物を手にして羽織り、袖を通して帯を緩く締め、鏡の前に立った。

 着物は美しいが、自分の肌は傷だらけで………似合わない。
 こんな身体では嘉島を縛り付けておく事など、出来はしない。
 一瞬、鏡を割ってしまいたい衝動に駆られたが、顔を背ける事でそれを抑えた。


 ――――――独りは、駄目だ。
 あの時間が迫っていて心が不安定な今、独りになってしまったら、暗い考えばかりがよぎる。
 けれど自分の傍に居てくれる人など、居ない。
 踵を返し、水槽の前へと歩み進んだ瞬間、力が抜けたように蓮は絨毯の上へしゃがみ込んだ。
 冷たい硝子に触れながら、夢すら見ないほど深く眠ってしまいたいと、考える。

「憲吾さん…、」
 弱々しい声で再度想い人の名を呼び、蓮は瞼を閉ざした。




 忌々しそうに舌打ちを零しながら、嘉島は携帯電話を後方へと無造作に放り投げた。
 椅子の後ろには護衛の男が立っており、慌てた様子で、投げられたそれを上手くキャッチする。
 不機嫌そうな嘉島の両脇に居る、華やかな女達は、媚びるような眼差しを嘉島に向けるだけだ。
「親分、何かあったんですか?」
 女性を挟んだ右側から藤橋の問いが聞こえたが、嘉島はそちらを見ようとはしない。
 腕時計を眺め、苛立たしげに眉を顰める。


 数ヶ月前までは、この日は蓮の傍に居てやろうと考えてはいたが
 予定が詰まりだすと、それも頭の隅に消えてしまった。
 着物は、この日になれば蓮のもとに届くよう、随分前から田岡に手配させていた所為で
 今日が何の日か、先刻の電話で蓮に問われるまですっかり忘れていたのだ。

 今日は………祝うべき、蓮の生まれた日だ。しかし同時に、忌むべき日でもある。
 もうあれから一年も経ったのかと、嘉島は苛立たしげに舌打ちを零す。


 『一番好きな人と、一緒に居たいって云う我儘です』

 不意に、受話器越しで聞いた蓮の言葉が、脳裏に蘇る。
 己の立場を弁えているだけでなく、本来の性格ゆえに淑やかな蓮は、常に控えめで図々しさが無い。
 傲慢な嘉島が、多少の我儘なら聞き入れようと譲歩しても、願いをあまり口にしないのだ。
 その蓮が、あんなにもはっきりと、我儘だと告げるのは極めて稀なことだ。




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