高校2年になってから初めて、
牧村は学校に通うのが億劫になった。
生徒手帳に書かれた時間割の<書道>と云う字を見るだけで、溜め息が零れる始末だ。
牧村は、「女」と云う字を書くのを、とことん嫌う。
「く」と「ノ」と「一」だけの単純な組み合わせだが、「く」の部分の角度がどうしても上手く書けない。
「く」だけなら書けても、「ノ」と「一」を組み合わせると不恰好になってしまう。
小学生の頃、書に関しては口煩い教師に放課後まで残されて
延々と「女」を書かされた苦い思い出もあり、今では書道の授業も嫌っている。
それだけならまだしも、隣の席の
西藤(は自分の嫌いな字を書きまくる。
女、女、女……。
書道の授業中、西藤は毎回、半紙にその字をひたすら書くものだから、苦手な人物と化していた。
『 接合 』
普段なら隣席は、一定の距離を置いて離れている。しかし、今日は違った。
西藤と机を合わせた牧村は、居心地の悪さを隠せない。
対照的に西藤は普段と何ら変わり無い様子で水滴の水を硯に差し、背筋を伸ばして姿勢よく、ゆっくりと墨を磨っている。
書道の授業だと云うのに生徒達は騒がしく、私語ばかり飛び交うなかで西藤は無言だった。
喧騒のなか、墨を磨る音が微かに聞こえる。墨の香りが、牧村の鼻先を擽った。
まるで墨磨りの音を聞き逃すまいとしているように西藤は黙ったまま、丁寧に手を動かしていた。
やがてきめ細かい墨液が硯の海に溜まると、西藤は満足そうに手を止めた。
「ほら、おりたぜ。使えよ」
「ああ…悪い、」
合わせた机の中央に硯を置かれ、牧村は視線を絡めずに云う。
自分が使っていた墨と硯が紛失した所為で、今回だけは共用させて貰う形になった。
前の書道の授業では確かにあった筈だが、今日になってロッカー内を探してみると無くなっていた。
ありのままにそう報告すると、教師は眉を顰めて「注意力が散漫だ」と咎めただけで、墨も硯も貸してはくれなかった。
紛失した、では無く、家に忘れて来たとでも言えば良かったのだと
牧村は今になって言葉の使い方を誤ったことに気付く。
真っ白な半紙を眺めながら、何を書こうか決めかねていた牧村の横で西藤は筆に墨を含ませ、いつも通り「女」を書き始めた。
あっと云う間に「女」が書かれた半紙は、机下に敷かれた新聞紙の上へ置かれてゆく。
楽しそうに筆を走らせる西藤の姿を、牧村は内心、呆れながら眺めていた。
よほど女性が好きなのだろう、と軽く考えた牧村だったが、ふと、ある事に気付く。
西藤は書道の授業は、開始から終わりまで「女」しか書かない。
しかもそれが毎回続いているのだから、少し興味が湧く。
女性が好きと云う理由だけでは、その行動はいささか異常だ。他に、理由が有るのでは無いか。
思案しながら牧村は、机下に次々と並べられてゆく「女」を見た。
同じ文字でも、それぞれ文字の大きさや始筆や終筆の形が違い、線が重厚だったり、細く軽快なものだったりする。
恐らく筆圧や筆の運びを意図的に変えているのだろうと考え、西藤の手の動きに目を遣った。
筆の運びが緩急かと思いきや、途端に速くなる。
速度が、一律では無いのだ。
思わず見入っていると、それに気付いたかのように西藤が手を止め、「女」を書き終えた半紙を机下に置く。
墨がまだ乾いていないうちから新しい「女」が被さり、下の墨が滲んで文字の形が崩れてゆく。
それを目で追い、勿体無いなと考えていた牧村に西藤の問いが投げられた。
「なに? 俺の字なんか、まじまじ見ちゃって」
可笑しそうに笑った西藤が、目を細める。
一瞬、心を見透かされたかのような感覚を覚え、牧村は居た堪れなくなった。
西藤は牧村を見据えたままで、答えを聞くまで解放する気などないと云った様子だ。
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