本…2

 ふと、気付いたかのように、柿沼は文違のほうへ顔を向けた。
 指の動きが止まったのを訝った文違が、多少遅れて目を上げ………視線が、絡み合う。

 一瞬だが、文違は、柿沼の指に欲情していた。
 それを自認していた文違にとって、此方を捕らえて来る鋭い視線は呵責のものにしか思えず、目を逸らせないまま立ち尽くした。
 すると柿沼は、声を掛けるでもなく、あっさり視線を外し、奥の窓際の席へ戻ってしまった。

 見送った文違の顔が、一気に赤く染まる。
 こんな白昼から学校内で、しかも同性相手に欲情した己が、ひどく恥ずかしく思えたのだ。

 俯き、ひとまずは深呼吸をと、口を開き掛けた矢先、本棚を挟んだ奥のほうから男子生徒の笑い声が響いた。
 びくり、と。驚きで、肩が震えてしまう。
 恐る恐る聞き耳を立ててみれば、彼らは他愛の無い話題で盛り上がっていただけで、先刻の行動を見て笑っていた訳では無かった。

 誰にも気付かれぬよう、控え目に安堵の息を零し、やがて気を取り直した文違は棚へと近付き、目当ての本を引き抜いた。
 その際、柿沼の、あの仕種が鮮明に浮かぶ。

 大した自慢にはならないが、文違は本を大切にする質だ。
 そんな自分よりももっとずっと、柿沼は、繊細な扱いをしていた。
 目にした時、敗北感も有ったが、同時に惹かれる気持ちもあった。

 ───だけど。
 書物に対しての、あの指使いと眼差しは、何だったのだろうか。
 まるで……恋人に対する仕種のようでもあった。

 先刻の彼と同じように表紙をなぞり、物思いに耽っていると、騒がしい笑い声が立て続けに反響した。
 眉を顰め、本棚の隙間から向こう側を覗き見れば、同学年の生徒達が数人、楽しそうに言葉を交わしている。
 最初は控え目だった声量も、注意が飛んで来ないと分かれば、どんどん高くなってゆく。
 素行の悪い連中だと知っているのか、図書委員の生徒は見て見ぬふりだ。

 無論、文違も注意する気は全く無い。
 ああ云う連中には、近付かないほうが無難だと判断している。

 騒がしいのは癪に障るが、注意して目を付けられるほうが面倒だと判断し、彼らから視線を外そうとした───その時。
 視線の先に、数冊の書物が映る。
 彼らが座している机上に、それは開いたまま、伏せて置かれていた。

(…ちきしょう、あんな置き方して。何の為に栞紐があると思っているんだ。)

 あれでは本が傷んでしまう。そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
 文違は面倒ごとを極端に避ける傾向に有るが、書物のことになると、冷静でいられなくなる。
 心底尊敬していた祖父が司書だったと云うのが、一番の影響だ。

 急いた足取りで彼らに近付いた文違は真っ先に、伏せた書物を手に取って慎重に閉じた。

「……あの、」
「ああー? なんだよ、おまえ?」
 つづいて声を掛けると、威圧感の有る大きな声が響く。
 喧嘩腰の口調をぶつけられることに、文違は慣れていない。そう云う環境とは、ほとんど無縁の生活を送っていたのだ。
 早くも心が折れ掛けたが、床にも書物が落ちているのを見て、感情は一気に強まった。

「大切にしろよ、本。」
「…はあ? なに言ってんだろうな、コイツ」
「聞こえねーし。もっとデケェ声で喋れよ、ほら」
 げらげらと、品の無い笑い声が耳の奥に入る。

「で、本がなんだってー?」
「……だから、本を大切にしろって言ってるんだよ、」
 逃すまいとするように、生徒の一人が後ろに回り込んで、笑いながら問うて来る。
 文違は振り向き、相手の目を見てはっきりと返すも、口ぶりは若干反抗的なものになった。



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