本…4
それなら誰に言ったのかと訝る文違の目に、書物に触れる指が映る。
心臓が、どきり、と弾む。
見惚れている文違に目もくれず、柿沼は書物を丁寧な仕種で重ね、奥の本棚へ向かった。
棚と棚の間は、一人通るのがやっとのスペースだ。
身体を僅かに横向かせて、柿沼は慣れたように奥へ進んでゆく。
広い背中をぼんやり見送っていたが、庇った本をまだ手にしていたことに気付き、慌ててラベルを確認した。
そこで文違は、少なからず驚かされる。
書物の背に貼られた分類ラベルを確認した素振りは、柿沼には無かった。
表紙だけを見てから、柿沼は真っ直ぐにあのスペースへ向かったのだ。
場所を覚えているのだろうかと思案し、またしても敗北感を味わう。
悔しげに歯噛みし、ラベルを確認してから隣のスペースへ入る。
きっちり分類や整頓され、密着した書物がずらりと並ぶ壮観さには、感嘆の溜め息が出そうになる。
奥まで進み、手にしていた物を、至極丁寧に棚へ戻す。
漂う書物の匂いに浸りながら文違は、背表紙を軽く指先でなぞった。
本には多くの思想が潜んでいるんだと、嬉しそうに語っていた祖父の、優しい顔が浮かぶ。
「文違、度胸有んのな。突き飛ばしただろ…すげぇ意外」
棚の隙間から不意に、柿沼の声が通って来た。
視認しようとしてみたが、隙間は狭過ぎて姿が見えない。
「…本が踏まれそうだったから。咄嗟に、」
「へえ、そんなに本が好きなのかよ」
「祖父が本を大切にしてたから、その影響で。」
「物好きなジイさんだな。まあ、俺も本が一番だし。二番目はねぇんだぜ、好きなのは本だけ」
「……柿沼って、屈折してる。」
淡々と言葉を返しながら、不思議だなと文違は思う。
ほぼ毎日顔を合わせていたのに、柿沼から話し掛けられたことは一度も無い。その逆も当然、無かった。
それなのに今は、顔を合わせずに言葉を交わしている。
顔も見えないこの状況が、今までで一番、柿沼に近い気がした。
「まあな。それより文違、ああ云うコト、止めたほうがいいぜ。弱ェヤツは何もすんなよ、見てて苛つく」
言葉だけなら、文違は憤っていただろう。
だが柿沼の声音が先刻よりもずっと親しげだった所為で腹も立たず、むしろ遊び心が擽られた。
親しい友人同士でたまにするような、難癖の付け合いのようなものだ。
ひょっとしたら柿沼も同じように、身近に感じてくれているのかと思うと、気分は一層高まった。
「柿沼はボクシングをやっているから強いってだけだろ、そんなの反則じゃないか?」
「昔の話だ。今は、喧嘩の時はもっぱら蹴りだぜ」
「…なんで、」
「誰かを殴った手で、本に触りたくねぇから」
思わず、そのまま流してしまいそうになるほど、あっさり過ぎる物言いだった。
一瞬間があいて、少し躊躇ったのち、文違は遠慮がちに口を開いた。
「…触りたくないって、なんで、」
「本が汚れるからに決まってんだろ」
「手を洗えばいいだけの話じゃないのか、」
再度、間があく。先ほどよりも、ずっと長く柿沼の返答が途絶えた。
訝るが、顔も見えない為、彼の考えを表情から汲み取る事も出来ない。
気を紛らわせようと、柿沼のいる方向へ背を向け、正面に並ぶ書物を目でなぞった。
背中に、柿沼の溜め息がぶつかる。
「文違って、分かってねぇな」
彼の声音はもう、親しげではなく、刺すような冷めたものに変わっていた。
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