本…5
「…どう云うことだよ、」
対抗してか、文違の声も苛立ちを含んだものに変わる。
しかし今度は、どれだけ待っても柿沼の返答は無かった。
苛立ちを強めて、二、三度名を呼んだが、やはり返答は無い。
物音もしない様子からして、立ち去ってしまったのだと察する。
(不快にさせてしまったんだろうか…。)
気分が重くなり、溜め息が零れる。
柿沼にとって何が不快だったのか、文違には分からない。何を分かっていないのかも、分からなかった。
「言うだけ言って去るなんて…柿沼の卑怯者め、」
「誰が、卑怯者だって?」
思わず悪態をついた瞬間、不機嫌な声が届く。
驚き、顔を向ければ、いつの間に移動していたのか柿沼が近付いて来た。
咄嗟に後退ったが、奥に居た文違の背は、直ぐに冷たい壁に触れてしまう。
此処なら人目にも付き難い分、柿沼は気が済むまで暴力を振るう事が出来るなと、文違はひどく冷静に考えていた。
大声を出せば、助けが来る可能性は高い。だが文違には、それが出来ない。
────図書室では、静かに。
例え、こんな状況でも、あの言葉に従ってしまうのだ。
体格のいい柿沼を目の前にして、壁際に追い詰められた文違は唇をきつく結ぶ。
瞬間、昼休みの終了を告げるベルが、けたたましく鳴り響く。
「それで、卑怯者って誰のコトだよ?」
ベルが鳴り終わっても意に介さず、文違の真上の壁に肘をついて一層距離を縮め、平然と問い直す。
凄む柿沼を前に、文違は生唾を飲み込んだ。
(大丈夫だ。どうせ、痛みは永遠には続かない。)
諦めにも近い考えだったが、潔く腹を括り、柿沼を真っ直ぐに見上げた。
「柿沼のことに決まってる。おれが、何を分かっていないって言うんだよ、」
半ば、むきになっていた。
反抗的な眼差しを受け止めると、柿沼は、口元をふっと緩める。
「…ガキだな、文違。小難しい本ばっか読んでるから、もっとオトナなヤツかと思ってたぜ」
「ガキで結構。柿沼は、見る目も無くて、そして浅はかだ。
そう云う本を読んでいるからって、おとなだと決め付けるなんて愚行だよ。
本を沢山読んで、何もかもを分かったような気になっても、経験が追いついていない場合だって有る。」
すまし顔で、流暢に返す。文違は自分自身を、まだ経験の浅い子どもだと認識している。
その為、例え同学年の人間であろうとも、子ども扱いされた事は全く響いていない。
ただ、書物と、読む側の人間性を結び付けられた事実に憤っていた。
「おまえ、変なトコでキレるのな」
見越したかのように柿沼は目を細め、笑う。
暴力を奮う気配が一向に見えず、文違の眉根は訝しげに寄った。
「さっきの話だが、手を洗おうが消毒しようが、一度ついた汚れは消えないってコトだ。
…一度でもヒトを殺しちまったら、そいつは一生、人殺しなんだ。それと同じで、どうしたって、過去に自分がしちまったコトは消えねぇよ」
「人殺しって、」
生徒達の言葉が、甦る。
あれは聞き間違いでは無かったんだろうかと思案し、真っ直ぐに柿沼を見つめると
彼は片方の眉を上げ、口の端を吊り上げた。
それは笑い顔、とは到底思えないもので、文違は些か戸惑う。
怒っているような、悲しそうな、悔しそうな、途方に暮れているような。
どれも当てはまるようで、しかし見れば見るほど、どれにも当てはまらないと思えるぐらいに、複雑過ぎる表情だった。
「例えだ。例えバナシ」
今度は、ちゃんと笑いながら軽く返される。
文違も頷くだけで、それ以上追求しようとはしなかった。
「それじゃ、もういいだろう。柿沼、退いてくれ。授業に出るから、」
「もう良いって何が?」
「だから、話は終わり…だろ、」
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