本…08

 ひっそりと静まり返った空間に残った文違は、深く息を吐く。
 壁に凭れたまま、ずるずると下がり、床に座り込んだ。
 両手で顔を覆ってみるが、顔よりも耳が熱い。
 肩に、柿沼の指の感触が強く残って、消えない。

(柿沼は、どうかしてる。)
 いきなりあんな事をしておいて、その上、恋人になれとは。
 あまりにも、身勝手過ぎる。

 脳裏に、柿沼の憎たらしい笑い顔が浮かんで、文違は苛立つ。
 続いて浮かんだ表情には───息苦しさを、覚えた。

(おれも、どうかしてるな…。)
 柿沼ともう関わらなくて済むのだと思うと、安堵感は有る。
 けれど………それよりも、さびしい気持ちのほうが勝るのだ。
 何より、例え話をした柿沼の、複雑過ぎる表情が心に残っていた。

 瞼を閉ざすと、昔、祖父から聞いた言葉が鮮明に浮かぶ。

 文は人なり。
 隅から隅まで読めば、著者の個性や性格、人となりが分かると云う。
 そう云う意味では人間も……柿沼も、まるで本のようだ。
 表面には見えない。もっと奥まった場所に、本質が見え隠れする。
 だから、もっと知りたくて、手を伸ばしてしまう。

 諦めたように、文違は深い溜め息を吐いた。
 教室に戻ったら手紙でも書いて、隣席の柿沼に叩き付けてやろうかと、思案する。
 らしくないなと軽く笑ってから立ち上がり、その場を離れ、図書室の出入り口へと向かう。
 手紙の内容を考えながら、扉を開いた。
 そこで、ぎょっとする。

 図書室の前で、柿沼が、壁にゆったりと寄り掛かって待っていたのだ。

「よお、捻くれもん。俺が聞き逃してたら、そのままだったのかよ」
「…なんのこと、」
「走って追い掛けでもしてくれんのかと思ってたが…ホント、可愛くねぇヤツ」
 ひどく機嫌のいい様子で、文違の腕を掴み、引き寄せる。

「可愛さを求めるなら、おれと別れて他と付き合えばいいのに。」
 柿沼の喜んだ顔は実際に見ると、さほど悪くなかった。
 それでも口からは、反抗的で生意気な言葉が出る。
 柿沼に対しては相当、捻くれてしまうようだ。甘い雰囲気など、無いに等しい。

「文違、少し黙れ」
 頭上で舌打ちが響くと同時に、後頭部を押され、柿沼の胸へと押し付けられた。 
 何度目かの舌打ちも、聞き慣れた所為か、気に障らない。

「でも奇遇だよな。俺も、理由は同じだぜ。本を大切にするおまえに惚れたんだ。
大人しそうな顔して度胸有るし、面白ェし、格好イイし。あと、エロいトコも好きだぜ」

 最後のは余計だ。とは思うが、好きな箇所を並べられるのは無性に擽ったく、そして嬉しい。
 柿沼は、一体どんな表情をして云っているのだろう。
 ひょっとしたら、照れくさくて顔を見せないようにしているのだろうかと思うと、胸の奥が熱くなった。
 真意は分からない。だけど、知りたいとは思う。

「…好きとまではいかないけど、」
 胸に押し付けられている所為で、言葉が上手く紡げない。
 それでも文違は、くぐもった声を続かせた。

「惹かれるところは、有る。……今は、少しだけ、」

 聞こえただろうか。届いていればいい、と、文違は思う。
 今は少しだけでも、これから先、柿沼のことを知れば知るほど、それは増えていくのだろう。


 ひどく嬉しそうに口元を緩めながら、柿沼は不意に、抱く力を強めた。
 唇が、文違の頭部に触れる。

 伝わったのだと理解した文違は
 さっきよりもずっと、胸の奥底が熱くなるのを感じた。
 手が、多少遠慮がちに、広い背へと回る。

 ───あたたかいな。
 ぽつりと呟いて、文違は楽しそうに笑い───柿沼を、しっかりと抱き返した。



終。


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