7月21日、午前6時。
 一昨年の夏、ヒロちゃんは飼っていた愛犬を亡くした。
 それからずっと、胸を痛めているのを僕は知っている。夏を、ひどく嫌っているのも。

 ヒロちゃんは繊細で、純粋だから。それに優しくて、とてもかわいい。

 夏の間、ヒロちゃんは少し不安定になる。
 昨日もチロのことを思い出して、泣いていた。
 幼い頃は泣き虫だったヒロちゃんの泣き顔なんて、僕にとっては珍しくもないけど。
 でも、今は泣かれると少し困ってしまう。

 僕は、ヒロちゃんが大好きだから。


   『 盛夏 』


 終業式を終えた帰り道、きつい陽射しから逃れるようにして
 木陰に覆われたベンチへと寝そべり、宏孝(ひろたか)は幼馴染の日記に読み耽っていた。

 梅雨明け以来、気温は上がるばかりで、まだ8月に入ってもいないのに暑い日々が続いている。
 暑さに慣れている宏孝ですら、この気温の中では気だるくもなる。
 気遣って、少し休もうと提案した幼馴染は、宏孝の為に飲料水を買いに駆けて行った。

 夏場は、ひとりになると余計に気が滅入って、醜態を晒す結果になるので
 気を紛らわせるものを求めて幼馴染の鞄をあさる。手前の目立つ位置に、その日記が有った。

 汚れひとつ無い、きれいな紙の上に、端整な文字で書かれた“大好き”を、指でなぞる。
 確かめるように何度もなぞっていた指は、近付いて来る足音に気付いた瞬間、止まった。
 なるべく慎重に日記を閉じると、視界に大きな影が映る。

「ヒロちゃん、待った?」
 長身の青年は、宏孝を見て嬉しそうに笑い、飲料水の入った透明な瓶を差し出した。
 彼は、今日みたいなうだるような暑さのなかだろうと、爽やかな空気を失わない。
 すらりとした体躯と、整った顔立ちに、短めの黒い髪。
 特に、目元が優しいのだと、宏孝は常々思う。
 鋭い目つきで他人を睨む自分とは大違いだ、とも思う。

「…別に。おまえの日記、勝手に見てたから退屈してねえし。」
 冷えた瓶を受け取り、反対の手で日記を突き出すようにして返す。
 これでも大分慎重に接している部類で、相手がこの青年で無ければ、投げて返すほど宏孝はがさつ者だ。
 彼が大切にしているものだから、宏孝も、なるべく丁寧に扱っている。

「そう、面白かった?」
「ハジメ、おまえ、嘘書きすぎ。俺は繊細でも純粋でも、ましてや優しさや可愛さなんて無えから。しかも日記持ち歩いてんなよ、乙女かよ。」
「ヒロちゃんが、いつでも読めるようにしたいから。」
「……あほじゃん、」
 日記を大切そうに学生鞄の中にしまう(はじめ)を横目に、呆れた声を出す。
 隣に座れと起き上がれば、春は嬉しそうに笑ってありがとうと礼を言い、腰掛けた。
 それに頷いてから、瓶の蓋を開けて上向き、冷たい水を喉奥に流し込む。

 汗でしっとりと濡れた喉元が上下する光景に、春は見入った。
 夏場も制服のシャツの釦を、きっちり留めている春とは対照的に、宏孝はだらしなく胸の下まで開いている。
 その結果、形の良い鎖骨も良く見えた。
 粒状の汗がうっすら浮かぶ胸元にも視線を注いでいると、気付いた宏孝が舌打ちした。

「…ハジメ、見んな。気が散る。」
「ごめん、」
 謝っておきながら、視線を戻そうとはしない。
 口にした謝罪の言葉にも、反省の色は全く感じられなかった。

 逃れるように反対方向へ視線を飛ばし、水を飲み続ける。
 纏わりつく熱気にさらされた所為で、体温は随分と上がっていた。
 熱を冷ますのと、渇いた喉を潤すことだけに集中しようとするものの、冷水をどれだけ飲んでも下がらない。
 身体中のあちこちへと視線が這う気配に、熱は上がる一方だ。
 いっそ、瓶の中の冷水を頭から被りたくもなる。


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