盛夏…06

 いつの間に回りこんだのか、連中の一人が、そこに居た。

「ナメやがって…テメェもヤツのツレだろ、ぶっ殺してやるよ」

 手には───鋭く光る、ナイフが握られている。

「ハジメ! 逃げろっ」
 逸早く気付いた宏孝が、血相を変えて走って来る。
 距離が開いている所為で、とても間に合いそうに無い。

 鋭い切っ先が、春目掛けて振り下ろされた───。



 次の瞬間、春はそれを避けると同時に腕と胸倉を捕らえ、男の勢いを利用して投げた。

 一瞬で視界が反転し、地面に倒された男は、何が起こったのか判断できない。
 爽やかな笑顔を向けて来る春を、ただ呆然と見上げている。

「武器はさ、危ないからやめようね」
 手首を捻られる痛みで、咄嗟にナイフを離す。
 折り畳み式のそれを拾った春は、丁寧に畳んで刃をしまい、無造作に放り投げた。
 それから、立ち止まっている宏孝にゆっくりと近付く。

「ごめん、ヒロちゃんの楽しみ一つ取っちゃって、」
「…いや、無事でなにより…」
 反省の色を浮かばせて謝罪すると、気の抜けた声が返って来る。

 刺されなかった事への安堵感と、男を軽々投げた光景を目にした所為で、思考が働いていない様子だ。
 半ば放心状態の宏孝を呼び、頭に触れようと手を伸ばすが、素早く避けられてしまう。

「後は…アイツだけだな」
 投げられて地面に転がった男へ近付き、容赦なく、腹を何度も蹴り付けて気絶させてから、最後に残った生徒を振り向いた。
 小狡い表情が消えた生徒は、困惑し切った顔をしている。
 震えた足で彼は一歩だけ、後退った。

「…てめえも男なら自分の身体張れよ。それとも負け犬のままで終わりか、あぁ?」
 血の混じった唾を吐き捨て、挑発する。

 倒れた男たちと宏孝を交互に見てから、彼は震える手で拳を握り、睨んで来る。
 が、宏孝の予想を裏切り、背を向けて一目散に逃げてゆく。

「ンだよ、張り合いねーな…」
 大きく舌打ちすると、隣に並んだ春が肩に触れ、柔和な笑みを向けて来た。
「ヒロちゃん、帰って手当てしよう?」
「ああ…、」
 彼の笑い顔を目にし、込み上げて来る安堵感に息を吐く。
 ナイフを向けられた、あの光景を前にした時は、心臓が停まるかと思ったほどだ。
 胃が締めつけられるような感覚に、吐き気すら覚えた。
 あんな感覚はもう二度と味わいたくないと、ぼんやり考えていた宏孝の脳裏に、春が男を投げた光景が甦る。

「…って、ハジメ! さっきの何だよっ」
「なにって?」
「喧嘩に決まってんだろっ、何で隠してたんだよ、ざけんなよッ」

 あやうく、流してしまう所だった。
 力任せに胸倉を掴んで、ぐっと引き寄せる。

 怒った春は、宏孝ですら手が付けられないが、それは決して力を揮うものでは無く、精神的にとことん追い詰めるものだ。
 彼が肉体的にも強いことを全く知らなかった宏孝は、憤りを隠せない。

「隠していた訳じゃないよ。今まで、ヒロちゃんの相手が僕のほうにまで来なかった、ってだけだし。」
 慌てて言訳でもすれば、少しは可愛げも有ると云うのに。
 動じる気配も無く、春は平然と答えた。
 あまりにも堂々としたその態度に、怒りは一気に萎み、溜め息が零れる。

「そうかよ……あーあ、ハジメが俺より喧嘩強かったなんてショックだ」
「ヒロちゃんのほうが強いよ、」
「嘘つけ。一発で、のしちまったじゃん…しかも簡単に投げただろ。下手な慰めすんな、怒るぜ。」
 鞄を奪い取り、荒い足取りで進み出した宏孝を、急いで追う。

 プライドを傷付けられて、すこぶる機嫌が悪そうな彼を横目で見、
 今は何を言っても聞き入れてくれそうにないと判断し、春は口を閉ざす。

 暑さで揺れる景色の中を、二人は無言のまま進んだ。



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