盛夏…07

 門をくぐり、緑に囲まれた緩やかな坂を上がった先で、ひっそりと建つ木造の日本家屋は風情のある趣きだ。
 余計な雑音は一切無く、辺りは静まり返っている。

 庭から響く水のせせらぎが、耳を擽った。
 喧騒とは無縁の敷地内では、蝉の声が控えめな分、自然の音が際立つ。
 地面に落ちた葉陰が、風に撫ぜられて揺れる様は見ているだけで涼しくなる。

「相変わらず、別世界みてー…」
 道中無言だった宏孝が、此処に来てようやく口を開いた。が、独り言に近い。
 一応頷いてから彼の手を握り、優しく引いて庭の奥へ促す。

 玄関から通るのを、宏孝は極端に嫌う。
 庭から縁側を伝って春の部屋に入るのは、いつものことだ。
 飛び石の前まで進むと、繋いだままでは進み難いと判断した宏孝が、多少雑に手を振り払った。
 春が、自分よりも強いと分かった以上、遠慮はしない。
 雁掛けに打たれた飛び石をつたい、丁度真ん中辺りで足をとめて振り向く。

「ハジメの家族、今日は居ないのかよ」
「今日も、だよ。兄貴達は、みんな家出てるし。親父は弟子達の稽古で、来月まで北のほう…だったかな」
「なんだよハジメ。夏休み、家族でどっか行ったりしねえの?」
「そう云うの、無縁だからね」
 他人事のように、あっさりと返す。
 春が寂しい気持ちを全面に押し出すのは、宏孝が原因の時だけだ。それ以外は、滅多に無い。

「だから心配しなくても夏休みは毎日、ヒロちゃんと一緒に居られるよ」
「べ、別に心配なんかしてねえ」
「会えない日が続いたりしないか、心配だったんだろ?」
「……うるせーよ、ハジメ」
 大きく舌打ちし、背を向けて荒々しい足取りで進む。
 否定しなかった彼の後ろ姿を眺め、春は思わず口元を緩める。
 本当に、かわいいなと、心底思う。

 宏孝は振り返らず、縁側の硝子戸を勝手に開けて中へ入った。
 きれいに磨かれた沓脱ぎ石の上では、靴が乱雑に脱ぎ捨てられている。
 わざわざそれを並べ直して縁側に上がった春は、硝子戸を閉め、自室へ真っ直ぐに向かう。

 一人部屋にしてはいささか広すぎる室内で、宏孝は我が物顔でベッドに座り、ワイシャツを脱ぎ捨てて半裸になっていた。
 返り血や汚れを、姿見で確認しながら、濡れタオルで拭いている。

「ちょっと殴ったぐらいで、血ィあんなに出すなっつーんだよ。マジ汚ェし。ハジメ、後で風呂入ろうぜ」
 髪も念入りに拭き、舌打ち交じりに文句を零した。

 誘っているのでは無いと分かってはいるが、下心を抱いた春は、露出した肌をじっと見つめる。
 筋肉が程よく引き締まり、均整のとれた体躯は、見ていて飽きない。
 しかし相手が宏孝だと、純粋な観賞だけでは留まらず、劣情が腹の底から滲み出てしまう。

「…ハジメ、目がエロい。見んなよ」
 気付いて、居心地悪そうに身を捩る。
 それでも纏わりつく視線は、離れない。
 聞こえよがしに深い溜め息を吐いてから、シーツを軽く叩いた。

「見てるぐらいなら、こっち来いよ。包帯、上手く巻けねえから」
「ヒロちゃんは、不器用だから」
「違えよ、右腕は巻き難いだけだ」
 すかさず反論する様子に、思わず笑いが零れる。
 なんだよ、と唇を尖らせて不機嫌な声を投げた瞬間、春が強引に腕を引き───唇が、合わさる。



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