楽園…2

「すみません、ちょっと…驚いてしまって。ありがとうございます、」
 目を細めてにこやかに笑う姿に、男の視線が釘付けになる。
 笑うと更に魅力的だと考えるが、直ぐにはっとし、フリントホイールを指で回して着火させた。
 梓は躊躇い無く顔を近づけ、ライターの火へ煙草の先端を寄せる。
 その際、微かに線香の匂いが漂い、青年が着ているそれは喪服なのだと気付かされた。

 何処と無く陰のある表情を見る限り、誰か親しい人間が亡くなったのかも知れない。
 そう考えて躊躇いがちにその表情を窺っていたが、不意に梓が目を上げ、視線が絡み合う。
 見目形の美しい彼に見つめられると、脈は次第に速まり、緊張が高まってゆく。

 しかし目を逸らすのも不自然な気がして困惑し、男は徐々に表情を硬くした。
 そんな男の胸中を何となく察した梓は、ほぼ無意識に口元を緩める。

 (こんなに反応が良い人に出会ったの、久し振りだ。)
 胸の奥に圧し掛かっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気さえする。
 梓はゆったりと紫煙を吐いた後、相手のネクタイに目を向けた。

「曲がってますよ、」
「えっ?」
「ネクタイ、曲がってます。」
 まだ吸いかけの煙草を傍らのスタンド灰皿へ、惜しむ様子も無く捨てた後
 手を伸ばした梓は、断りもせずにネクタイを掴んだ。
「あ…す、すまない、」
 梓の唐突な行動に、男は動揺を隠しきれずにいた。
 さきほど、ライターを差し出されただけで驚いた辺り、人見知りする性格なのかと思っていたが
 まるで打ち解けたかのように間近で、しかも他人のネクタイを直している。
 内心驚いていると、目の前の青年は急に眉を寄せ、小難しい表情を見せた。

「…これ、結び目からして変ですね。一度解いて、結び直しても構いませんか?」
 ちらりと見上げられただけで、自分でも驚くほど、どきりとする。
 幾ら相手が容姿端麗だとしても、同性相手にこの反応は異常では無いかと思う。
 己に戸惑いながらも頷くと、梓はすぐさまネクタイに目を向け、それを緩めて解きだした。
 慣れた手付きで結び直している様子を見守っていた男は
 数分も経たぬ内に落ち着きを無くし、意味も無く周囲を窺いだす。
 駅内の喧騒は耳に聞こえるが、青年と自分との間には沈黙しか無く
 それを意識しだすと、どうしてか、ひどく後ろめたい気分になる。
 次第に居た堪れなくなった男は、内心焦りながら口を開いた。

「き、君は…ネクタイ、していないんだね」
「ええ。おれ、窮屈なのって好きじゃないんです。」
 片方を輪の外側から内側に向けて通した矢先に声を掛けられたが、梓はそちらへ目を向けることも無く返し
 複雑な結び方を難無く行ない、形の良い結び目を作りあげた。

「……私が普段やっている結び方と、全然違うな。」
「結び方は、幾つか種類が有りますから。これだと結び目も小さいですし…少し窪みを作っておけば品良く見えますよ」
「す、すごいな…知らなかったよ、」
 男が感心の声を上げると、梓は口元を微かに緩め、ネクタイから手を離して後退する。
 そのまま離れてしまうのかと考えた男は、彼を繋ぎ止められる話題を焦りながら探し出す。
「誰かのお葬式の、帰りだったのかい?」
 質問を口にして、沈黙が数秒続いた後に、しまったと思う。
 普通は、そう云った話題は避けるか、遠まわしにするものだ。
 気まずい空気を実感し、躊躇いがちに青年の表情を窺うと、さびしげな微笑が目に映る。

「…知り合いです。ただの、」
 無感情な声音を放った後、梓は顔を背け、柵の向こう側の、薄暗い景色に目を凝らした。
 おもてには出していないが、その横顔からは何処と無く、哀惜が滲み出ているようにも思える。
 亡くなったのは、ただの知り合いでは無いだろうと察した男は、躊躇いがちに尋ねた。
「どんな人、だったのかな、」
「詳しくは知りません。そこまで深い仲じゃ、無いので…」
 相変わらず無感情な、素っ気無い物言いで答えるが、梓の心はひどく揺れていた。
 ハルユキのことを少しでも誰かに話すと、哀惜の念は強まってゆくように思える。

「……でも、おれにとっては、良い奴でした。」
「そうか。その人、きっと行けるだろうね。楽園、」
 耳に届いた科白に、双眸が大きく見開かれる。



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