楽園…3

 言葉を失くして放心している梓の様子を見て、男は己の発言に焦りだし、頭を掻きながら言葉を続かせた。

「ああ…楽園じゃなくて、天国って云うのかな、普通は。」
「いえ、楽園で…いいんです。あいつ、それを何よりも求めていたから…」
 声が、ほんの少しだけ震える。
 脳裏にハルユキの姿が浮かぶと、喉の奥がまるで締め付けられたように苦しくなるが、涙は零れない。
 思う存分泣いて、慟哭すれば、少しでも楽になれたのかも知れない。
 けれど梓の目から、涙が伝い落ちることは無かった。
 ひとの為だろうと自分の為だろうと、泣くことは一生出来無いのかも知れないと考え
 目を伏せて苦笑した瞬間、背広の隠しで携帯電話が震えだした。

「…すみません、店から連絡が入ったみたいです」
 携帯電話を取り出し、届いたメールを確認しながら声を掛けると、男は残念そうな表情を見せる。
 本当に反応が良いひとだなと考え、梓は視線を男の指へ移す。
 さきほどから気になっていたが、その指に嵌められたものは、どう見ても結婚指輪だ。
 そう云ったものを嵌めている男を、ハルユキはとても好んでいた事を思い出し、少し間を置いた後、視線を戻す。

「そろそろ帰った方が良いんじゃないですか、…心配すると思いますよ」
「いや…あいつは、どうせ今日も娘と出掛けているよ」
 梓がさきほどまで見ていた指輪を眺めながら、男はつまらなそうに答える。
 男の様子からして、家庭に居場所が無いのかも知れないと思うが、これ以上話を続ける暇は無かった。
 常連客から指定が入ったとの報せが、店から来たのだ。
 しかも客は既に店にいると云うのだから、なるべく急いで向かわなければならない。
 店の人間には、今日は葬式に行くと告げた為、まさか仕事が入って来るとは思っていなかった。
 店に寄らずに自宅へ戻ろうと思っていた梓は、内心辟易しながら携帯電話をしまう。

「それじゃあ、おれ…そろそろ行きます。火、貸してくださって有難う御座いました、」
「ま…待ってくれっ、」
 足早に進み出した梓の腕を、唐突に男は掴んで引きとめた。
 その行動に少しばかり驚いた梓は、訝しげに男を見遣る。
「私は、タカナシと云うんだ。小鳥が遊ぶと書いて、小鳥遊。 …いつも、毎朝7時55分には此の駅に降りて売店で珈琲を買って飲んでから、改札を出て会社に向かっている。 今日は早く終わったから、この時間なんだが…会社が終わるのは大体、21時過ぎなんだ」
 早口で捲くし立てた後、男は一度深呼吸し、物言いたげに梓を見据えた。
 始めは唖然としていた梓だったが、すぐさま男の意図を察し、くすりと笑った。

「おれの勤務時間はまばらなんですが、降りる駅は此処です。ひょっとしたら、また会えるかも知れませんね、」
 梓の返答に安堵したのか、腕を掴んでいた力が緩んで、離れる。
 もう引きとめられる事は無いだろうと考え、再び進み出した瞬間、背中に声が掛かった。
「君の名前は? 次に会った時、なんて呼べばいい、」
「梓です。呼び方は、小鳥遊さんの呼び易いように…それじゃ、」
 肩越しに振り向きながら答えた後、梓は軽く会釈し、その場を去ってゆく。

 ――――――これで、彼と他人では無くなった。
 梓の背を見送りながら、小鳥遊は安堵の息を零す。

 どうしてか未だに分からないが、彼と他人には、戻りたくなかった。
 もっと、色々な話をしてみたいと、強く願ってしまうのだ。
 その所為で、つい、あんな行動に出てしまったのだが………。
「……拙いなぁ、これじゃあ私は、かなり…変な奴じゃないか、」
 離れた先の階段を登る梓を眺めながら、小鳥遊は困惑げに額を押さえ、ぼやいた。




 翌日、タイマー時計の目覚ましが鳴ると、小鳥遊は素早く身を起こした。
 低血圧の所為で普段はなかなか起きれないのに、単純だなと苦笑が零れる。

 ………梓くんに、また会えるかも知れない
 そんな強い期待感を胸に抱きながら、身支度を整える。
 まるで遠足を前にした子供のように落ち着きが無く、ネクタイを結ぶのにも時間が掛かってしまう。

「あの結び方、ちゃんと教えて貰おうかな…」
 鏡を見て、苦々しげに笑いながら呟く。
 目に映った結び目は、いつも通り形が悪く、少し曲がってしまっている。
 早い話が、不器用なのだ。何をやっても、思い通りに上手くいった例が無い。



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