楽園…4

 小鳥遊は暫くネクタイを眺めた後、整えようと努めてみた。が、余計に悪くなる一方だ。
 もとから身嗜みには無頓着な方だが、あの美青年に会うのだと思うと、少しでも見てくれを好くしたくなる。
 男として、対抗意識が芽生えてしまったのかも知れないなと笑い、自室を出てリビングへ向かう。

 灯りの点いていないリビングは無人で、閑散としていた。
 室内へ進んだ小鳥遊はリモコンを手にし、テレビの電源を入れる。
 朝食は用意されていないが、今に始まったことでは無い。
 ニュースを眺めながら食パンを焼き、一人で朝食を摂る生活は、最早日常と化していた。
 妻とは、もう1年以上もろくな会話をせず、部屋も別々になっている。

 世間一般の夫婦関係とは程遠いが、小鳥遊は、妻に向けて不満を口にした事は無い。
 それは妻を愛しているから―――と云う訳でも無く、衝突するのが単に面倒だったからだ。
 歳を取れば、面倒ごとを避けて楽に生きたくなるし、あがくことに疲れて諦め易くもなる。

 大人になれば何でも出来るものだと、子供の頃は本気で思っていた。
 けれど実際は、日常に疲れ、自由を失い、体裁を最も気にするようになった。家庭を持てば、尚のことだ。
 子供の頃に思い描いていた自分には、なれなかったけれど
 大人なら誰もが、自分と同じ立場なんだと―――そう考えることで、諦め続けて来た。

 トーストに噛り付きながら、小鳥遊は耳を澄ます。
 テレビからは事故や不祥事、殺人などの暗い話題が流れていたが、普段と違い、暗然な思いに沈むことは無かった。
 期待感が有ると云うのは、とても良い事だと、小鳥遊は思う。
 それが有るだけで、麗らかな気分になるものだ。

 やがて食事を終えるとテレビを消して食器を洗い、上機嫌な足取りでリビングを出た。
 いそいそと出掛ける支度をし、時刻を確認しながら玄関先へ向かう。

「…行って来るよ、」
 普段通り、玄関でぽつりと呟く。
 当然の如く返事は無いが、いつもと違い、気分は晴れ晴れとしていた。
 梓に会える、と云う想いだけが、心を躍らせている。
 こんな気分で家を出るのは、何年ぶりだろうと思案しながら勢い良く扉を開け、外へ足を踏み出した。




 期待していた分、気落ちは激しかった。
 結局梓には会えず、その翌日も、駅で姿を見ることは無かった。
「そうだよな…そんな旨い話が、有る訳無いよなぁ」
 もう何度吐いたか分からない溜め息を、再び零しながら呟く。

 梓と初めて出会ったのは、木曜の夕方過ぎだ。
 それから既に五日も経っていると云うのに、まだ一度も再会を果たしていない。
 現状に気落ちしていた小鳥遊は、休日出勤していた疲れも合わさり、身も心も重たく感じる。
 しかし会社を休む訳にもいかず、いつもより少し遅れた時間に家を出て、駅へ向かう。
 予想していた通り、プラットフォームには既に大勢の人間が列を作っていた。
 ラッシュアワーに辟易しながらも列に並び、電車を待つ間は梓のことばかり考えてしまう。

 今日も会えずに終わって、これから先もずっと再会を果たせないのかと思うと、落ち込む。
 だが、何故自分が、これほどまでに気落ちしているのかが良く分からない。
 親しい人間に会えないのであれば、そうなるのも頷けるが
 梓は、まだ一度しか会ったことの無い、他人同然の存在だ。
 それなのに、何故こんなにも会いたいと願うのか、自分でも不思議で仕方が無かった。

 やがてプラットフォームへ滑り込んで来た電車へと、半ば押されるようにして乗り込む。
 通勤、通学者によって混雑した車内で、押し潰されそうなほどの圧迫感に思わず眉を顰めた。
 今まで朝のラッシュだけは避けて来たのにと、無意識に小さな溜め息を零す。
 吊革をきつく握り締め、気分を紛らわすように窓の外へ視線を向けた矢先に、ふと、梓の姿が脳裏に浮かぶ。

 (きっと、もう、会えないんだろうな。)
 まるで自分自身に言い聞かせるように、その言葉を何度も胸中に抱く。
 今日こそは会えるだろうと、毎日期待し続けるのにも、もう疲れた。
 第一、駅で偶然出会っただけの他人と仲良くなることなど、有り得る筈が無い。
 例え有り得たとしても、それは極稀な事で……………自分には、決して訪れる事の無い幸運だ。
 小鳥遊はそう考えることで、梓との再会を諦めようとした。



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