楽園…5
20分以上掛けて、電車は小鳥遊の降りる駅へ停まった。
ようやく、この混雑から解放されるなと安堵しながら、雑踏に紛れて下車する。
その際、梓と初めて出会ったプラットフォーム端の喫煙所へ、自然と目がゆく。
けれど求める姿は、今日も無い。
諦めようとしていたのにも関わらず、期待していた己に自嘲し、肩を落としながら階段の方へ進み出す。
―――――その瞬間。
「痴漢です、この人っ」
「……え、」
唐突に腕を引かれ、間近で叫ばれた。
予想外の事態に呆然としている小鳥遊の腕を更に強く掴み、女性は厳しい眼差しを向ける。
「恥ずかしくないんですか、こんな時間から痴漢なんかして…」
「え、いや…ちょっと待ってくれ、何の話だ、」
状況が上手く判断出来ずにいた小鳥遊は、次第に焦りだす。
この女性の云う行為など、した覚えが無い。
右手ではしっかりと吊革を握っていたし、左手にはビジネスバッグを持っていたのだから、出来る筈も無かった。
「人違いだろう、私は痴漢なんてしていないよ、」
「とぼけようとしても、無駄です。私の右斜め後ろに居たの、間違いなく貴方ですっ」
(右斜めなら、鞄が当たる位置じゃないのか?)
左手で持っているそれを、ちらりと見遣る。
続いて周囲へ目を向ければ、足を止めて此方の様子を窺っている人々の姿が、目立ち始めたことに気付く。
好奇や侮蔑の篭もった視線を浴びて居た堪れなくなり、小鳥遊は慌てて口を開いた。
「ちょっと待ってくれよ、勘違いだ、ほら…この鞄が当たっていたんじゃないか?」
こんな所を会社の人間に見られてしまったら――――考えただけでも、ぞっとする。
なるべく穏やかな声音を作り、掴まれた腕を引こうとした。
それを逃げられると判断した女性は目の色を変え、周囲に向けて大声を上げる。
「誰か、この人捕まえてください、駅員呼んでくださいっ」
「わ、わ…兎に角、落ち着いて…」
「あれ? 小鳥遊さんじゃないですか、」
今の雰囲気にはそぐわない、響きの良い、落ち着いた声が耳に届く。
素早く視線を向ければ、艶やかなキャラメルブラウンの髪をまばらに跳ねさせた、容姿端麗な青年が視界に入る。
青年は初めて出会った時と違い、上品で艶感が有るディオールの、ストライプが入った細身のスーツを着こなしていた。
「梓、くん…、」
「おはようございます。ああ、それとも、お久し振り…と云うべきですか、」
状況を分かっていないのか、梓は呑気に挨拶をしながら近付いて来る。
女性は梓をまじまじと見た後、さきほどまでの強気な態度をがらりと変え、控えめな物腰になった。
「あなた…この男の知り合いなの?」
「はい、そうです。彼がどうかしたんですか、」
「この男、痴漢よ。私の身体をずっと触っていたのよっ」
「痴漢、ですか…」
いささか驚いたように、梓は僅かだが眉を上げ、此方を見て来る。
梓に軽蔑されることを恐れた小鳥遊は、必死で弁明しだした。
「ち、違うんだ、誤解だ。痴漢なんてしていない、本当だ。私は、そんなことはしない、」
「嘘よ、触ったじゃない、」
「だから勘違いだろう…いい加減にしてくれ、」
何故こんな目に遭うのか、あまりにも理不尽過ぎる所為で、次第に腹立たしくもなる。
小鳥遊の物言いが慳貪なものに変わりだすと、梓は不意に手を伸ばした。
此処で小鳥遊が憤ってしまっては、分が悪くなってしまうとの考えで、とった行動だ。
相手の胸元を軽く押さえるようにして、しなやかな指が、そっと触れる。
あまりにも繊細な動きに、小鳥遊は思わず喉を鳴らし、言葉を呑みこんだ。
小鳥遊を安易に黙らせた梓は落ち着いた様子で、女性に向き直る。
「ちょっと、いいですか?」
「な、なあに、」
女性の声のトーンは、小鳥遊にも分かるほどはっきりと変わっていた。
まるで媚びるように微笑し、真っ直ぐに梓を見つめる瞳には、僅かだが、艶かしさが垣間見える。
それを察した梓は、己の容姿が十分利用出来ることを確信した。
「この人は、痴漢なんてするような人じゃないんです。」
「で、でも、実際に…っ」
同情を誘うかのように、悲痛な声が上がる。
しかし梓は慌てる素振りも無く、ぐっと顔を近付け、周囲の野次馬には聞かせまいと声を潜めて囁いた。
「非常に云い難いんですが、出来無いんです。この人、女性に興味が無いので、」
「え…っ、それって…」
「ええ。貴女のような綺麗な女性が傍にいたとしても、何も感じないんです。生粋のゲイですから、」
何の躊躇いも無く、まるで当然の事のように、さらりと言ってのける。
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