楽園…6
予想もしなかった梓の言葉に面食らった女性は、一瞬だけ戸惑った末、眉根を寄せた。
「でも指輪してるじゃない、あの人。結婚しているんでしょう、」
「そうやって、誤魔化しているんです。世間は、おれ達みたいな人間には厳しいから…」
ほんの少しだけ口端を上げて、梓は微笑んでみせた。
何処となく淋しげな気配が漂う、やるせなさそうな微笑。
それを見た女性は、はっと息を呑み、自分の口元を手で押さえた。
「あ、ごめんなさい…私、」
「……おれのこと、嫌悪しないんですね。貴女は優しくて、素敵な方だ…」
梓がにこやかに笑って見せると、女性の頬は徐々に紅を帯びてゆく。
場馴れしている、としか思えない梓の態度に、小鳥遊は呆気に取られていた。
やがて駆けつけて来た駅員に己の勘違いだった事を告げた後、女性は小鳥遊に詫び、少し躊躇いながら言葉を放った。
「理解する人が少ないから、大変かも知れませんが…その、頑張ってくださいね」
何の話か分からず、訝る小鳥遊をよそに、梓は礼を口にする。
自分だけが取り残された気分になり、ひどく気になった小鳥遊は、女性が立ち去って野次馬も散り散りになった頃に尋ねた。
「よ、良く聞こえなかったんだが…あの女性に何を云ったんだ、」
問われると、隣に並んでいた梓は少しばかり背伸びをし、顔を近づけて耳打ちする。
耳元で囁かれ、掛かる吐息に鼓動が速まるが真実を聞かされると、それすら気にならないほど驚く。
「すみません、勝手にゲイにしてしまって…でも、あれが結構いいんです。小鳥遊さん、運が良かったですね」
「そ、そうだね…梓くんに会えなければ、今頃どうなっていたか…」
「いえ。おれに会えたからじゃなくて、さっきの女性だったから良かったんです。
おれの容姿が通用する
女性で、本当に良かった、」
「いやいや、女性なら誰もが梓くんに見惚れるだろう、」
本心から発した言葉だったが、梓は一瞬目を丸くした後、可笑しそうに笑い出した。
「それは有り得ませんよ。ひとの好みなんて千差万別ですし…すべての人達に好かれるものなんて、存在しないんです。人だろうと、物だろうと。」
妙に説得力の有る科白に、小鳥遊は言葉を挟むことが出来なかった。
何と返せば良いのか分からず、当惑している小鳥遊をよそに、梓はプラットフォーム端の喫煙所に向けて歩き出す。
慌てたように後を追って来る小鳥遊に気付いてはいたが、歩調を緩めず、自分のペースで進んだ。
ほどなくして、誰も居ない喫煙所に辿り着くと、前もって決めていたかのように柵へ凭れ掛かる。
そう云えば初めて出会った時も、此処に寄り掛かっていたなと考え、小鳥遊は懐から煙草を取り出した。
ひょっとしたら此処は彼の好きな場所なのかも知れないと思案し、安物のライターで火を点ける。
その姿を横目に見ながら、梓は不意に言葉を紡いだ。
「それと、理解の有る
女性(だった…と云うのも良かった。
疑い深い女性は、証拠を見せろと言って来ますから、」
「証拠って、例えば?」
「……キスの一つでもすれば、証拠になります。」
「き、キス…、」
思いも寄らなかった返答に、小鳥遊は動揺する。
半開きになった口元から煙草が落ち、地面に触れた際、火花が散った。
それを目で追っていた梓は、綺麗だなとぼんやり考えたが、小鳥遊の靴が一歩退いたのに気付いて視線を上げた。
「梓くん、したのかい、…男と……その、キスを、」
小鳥遊の表情を見る限り、あからさまに引いている。
けれど梓は腹を立てることも、悲観的にもならず、くすりと笑った。
「しましたよ。しなければ知人が、冤罪をこうむる羽目になりますから。」
何の躊躇いも無く、当然の事のようにさらりと言ってのける。
そんな梓の態度に一つの疑問を抱き、訊いてみるべきか些か迷うものの、小鳥遊は探究心を抑えられずに口を開く。
「男とキスなんてして、平気…だったのか?」
「キスなんて、実際してみれば訳も無いことですよ。知人も、至って平然としていましたし、」
「い、いや…それは、君が相手だからじゃないのか、」
「ああ、確かに。そいつ、肥えた中年とはしたくないと言ってました。」
事も無げに返すと、小鳥遊は複雑な表情をして黙した。
なかなか口を開こうとしない小鳥遊に向け、一度かぶりを振った梓は、軽く肩を竦めて見せる。
「男とキスが出来ても、別にゲイって訳じゃ無い。要は、それを見た側の、観念の問題なんです。
……駅員や鉄道警察の驚いた顔は、見ものでしたけどね。」
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