楽園…7
「そ、そうか。じゃあ…梓くんはゲイって訳じゃないんだね、」
わざわざ言葉にして念押しのように確かめて来る様子に、梓は思わず微苦笑する。
即答はせず、さきほど地面に転がった煙草を拾い、傍らのスタンド灰皿へ捨てた。
「……はい。おれは、違います。」
やがて梓が短く答えると、小鳥遊は安堵の表情を色濃く見せた。
その上、良かった、とまで呟かれ、無神経な言動にほんの少し心が痛む。
「…おれが普通の奴で、安心しました?」
「いや、そんなつもりは…私はその、理解は有るし…」
気まずそうに目を逸らして弁解され、梓は眉根を寄せる。
(素直に、言えばいいのに。どうせ、気持ちが悪いと思っている癖に。)
徐々に込み上げてくる苛立ちを抑えようと、ほんの少し目を伏せた。
自分のような人間が、他人の理解を得られないことは十分判っている。
だから、嫌悪されてもあまり苛立つことは無いが………
体裁や見栄で、理解のある良い人を振舞おうとしている相手に関しては、多少憤りを覚えるのだ。
気を落ち着かせる為に、自分の腕時計へ目を通した梓は、ある事に気付いた。
――――まだ二回しか会っていない人に対して、苛立つのも珍しいな。
秒針に目を凝らしながら、己の変化を些か不思議に思う。
あまり親しくも無い相手に対して腹を立てることは、滅多に無い。
無感情、とまでは行かないが、
瞋恚などの感情は特に抱かぬよう、生きて来たのだから。
「あ、梓くん…ひょっとして、怒っているのか?」
何も言わなくなった梓の変化に、少し遅れながらも気付く。
ひょっとしたら同性愛者の知人か、もしくは友人がいるのかも知れない。
それなら梓が怒るのも当然の事だろうと考え、さきほど安堵を露わにした自分の非礼を、省みる。
「その、もし梓くんがゲイだったら、どう対応すれば良いのかを考えていたから…つい、顔に出てしまった」
「……いえ、そんな事より、気を付けてください。此処の駅、痴漢騒ぎが良く有るんです。ラッシュはなるべく、避けた方がいい」
あからさまに話題を変えられ、小鳥遊は気を落とす。
梓を不快な気にさせてしまったのかと思うと、どうしてか気落ちが激しい。
が、気を取り直すように小鳥遊は多少、無理に笑って見せた。
「言うのが遅れたが…有難う。それに、私が痴漢なんてしない奴だと信じてくれたのも、すごく嬉しかったよ、」
「小鳥遊さんって、体裁と保身で理性を保っていそうな人だから、痴漢なんてしそうにないなと思っただけです。」
どことなく嫌味の有る物言いで返され、小鳥遊の顔が強張る。
やはり怒らせてしまったのだろうかと考え、申し訳なさそうに梓を見遣った。
その瞬間、唐突に伸ばされた手が、小鳥遊のネクタイを掴む。
「ところで、小鳥遊さん。ネクタイまた曲がっていますよ、」
「結ぶのがどうも苦手でね、」
「…こう云うのって、結婚していたら奥さんがやるもんじゃないんですか、」
「そんなのは、新婚の内だけだよ」
はは、と若干乾いた笑い声を上げると、梓は意外そうに瞬きを何度か繰り返し、やがて距離を縮めて来た。
少し動けば身体が触れ合いそうなほど近付かれ、小鳥遊は鼓動を速める。
しかし梓は、距離を全く気にしていないかのように、平然と小鳥遊のネクタイを直し始めた。
「す、すまないね。……結び方を、私も覚えなければいけないな、」
「結び方一つで、印象って大分変わったりしますからね。」
結び方をしっかり見て覚えようと、小鳥遊は顎を引き、梓の手の動きに見入った。
小鳥遊が俯いた所為で、更に距離が縮まったように感じ、梓はふと手を止める。
顔を上げ、小鳥遊を一瞥したのち、声を潜めて囁く。
「…試しに、キスしてみますか、」
「えっ、な…」
「キスをしても、別に世界が変わる訳でも無い。それなのに、先入観や偏見に捕らわれて怯えているのは…馬鹿らしくないですか?」
まるで唆すように、甘い声音で囁かれる。
結び方を覚えるのに気を取られていた所為で、距離が此処まで狭まっていたことに、今更ながら驚く。
梓が少し背伸びをすれば、唇が触れてしまいそうなほどの、距離。
小鳥遊の視線が、梓の、整った唇に注がれる。
どきり、と心臓が跳ね上がり、小鳥遊は慌てて周囲を確認しだした。
喫煙所の付近には、相変わらず人の姿は無い。けれど、ホーム内には、まだ人が多い。
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