楽園…8
「どうせ、誰もこっちなんて見ませんよ。」
小鳥遊の胸中を見抜いたかのように、素早く声が掛かる。
視線を戻した小鳥遊は、再び梓の唇を見て、ごくりと喉を鳴らした。
心臓が煩いほど鳴り響いて、体温が上がってゆく。
好奇心は有るが躊躇いも強く、それ故に葛藤に苦しんでいる小鳥遊の様子に、梓は小さな笑い声を立てた。
「冗談ですよ。体裁、大事でしょう? 会社の方に見られでもしたら、大変だ。」
「……キスくらい、」
呟いて、小鳥遊の方から唇を重ねた。
唇がほんの少し触れるだけの、淡い口付け。
それに驚いたのは、他でも無く、梓だった。
からかいのつもりだったのに、する羽目になるとは思ってもいなかった。
しかも、世間体を気にしそうな小鳥遊の方から、して来たと云う事実に、梓はひどく驚いてしまう。
だが顔には出さず、平然とした態度を取る。
「どうです? 世界、変わって見えますか、」
「いや、至って普通…だね。」
「それはそうです。小鳥遊さんがゲイになった訳じゃ無いんですから、」
素っ気無く言って、惜しむ様子も無く離れる。
ちらりと目を向ければ、小鳥遊は物言いたげな表情をしていた。
「…そろそろ、拙いんじゃないですか。遅刻してしまいますよ、」
何かを言われることが、ひどく面倒に思え、自分の腕時計を指差しながら声を掛ける。
小鳥遊は一瞬だけ複雑な色を浮かべたが、やがて浅く頷いて見せた。
「そうだね。それじゃあ…、」
「はい。お仕事、頑張ってくださいね。いってらっしゃい、」
もう何年も聞いていなかった挨拶を耳にして、小鳥遊の思考が一瞬止まった。
その場から中々動こうとしない小鳥遊の様子を、訝る。
「小鳥遊さん? どうかしましたか、」
「あ…、…いや。有難う、行って来るよ。」
ぎこちなく挨拶を返した後、小鳥遊は口元を緩めて少し照れくさそうに、笑った。
橙色の明かりが幾つも灯った、落ち着いた雰囲気の店内。
ピアノの演奏を終えたばかりの梓は、近付いて来たスタッフの青年に声を掛けられた。
「いつもの部屋で
土屋さんがお待ちだ。急げよ、」
演奏中、視界の端に土屋の姿を捉えてはいた。
けれど土屋は直ぐに姿を消した為、帰ったのだと思っていた梓は複雑な色を隠せない。
少しばかり眉根を寄せた梓の表情に気付き、青年が声を潜める。
「分かっているだろうけど、失礼の無いようにな。」
「ああ…顔に出てたのか、ごめん。」
「よし、その顔なら大丈夫だ。いつも通りの好い表情だよ、すごく綺麗だ、」
梓の肩を軽く叩きながら青年は頷き、笑って見せる。
土屋の名を耳にするだけでも、少しだけざわつく心が、青年の気さくな態度を前にして落ち着きを取り戻す。
礼を口にした後、梓は店の奥にある扉を抜けて階段を上がり、二階へ辿り着く。
綺麗に磨かれた大理石張りの廊下には、土屋のボディガードが所々に立っていた。
うやうやしく一礼して来る連中に会釈しながら進み、やがて部屋の前で足を止める。
特別な人物しか入ることを許されていない此の部屋は、土屋の専用ルームと云っても過言では無い。
土屋は、若手実業家だ。
21歳――今の梓と同じ歳の頃には、既に四つのクラブやバーを経営していたし
土屋が経営していた飲食店の支店は僅か八年の間に、全国で約70以上にもなった。
今年に入ってからは、コンピュータソフトの開発会社を設立しただけでなく
大手電機メーカーの買収にも成功した為、実業界では名が通り、注目されている。
この店も土屋が趣味で出した店だが、法に触れることを行なっている所為で、おもて向きではオーナーは全く別の人間となっていた。
「キョウヤです。失礼します、」
控えめに扉をノックし、声を掛ける。
すると部屋側から扉が開かれ、土屋の専属秘書の男が顔を出した。
男は梓を見て頷き、丁寧な仕種で招き入れた後、定位置だと云うように、閉めた扉の前へ立つ。
広い室内は照明が落とされていて薄暗く、ゆったりとしたテンポのクラシックが流れていた。
間接照明すらも灯っていないが、ホール側に面した壁が床から天井まで一面、半透明鏡の窓になっており
ホールの明かりが差し込んで来る為、土屋の姿は十分視認出来る。
革張りのソファに腰掛けていた土屋は、此方を真っ直ぐに見据えていた。
つりあがった、切れ長の双眸。
まるで獣を感じさせるような、ぎらついた瞳に捕らわれ、心が再びざわつきだす。
けれど梓は平静を装い、普段と変わらぬ笑みを浮かべながら相手の前へ立った。
高級スーツを身に纏った男は、黙ったまま長い足を組み、じっと梓を見上げている。
[前] / [次]